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2007年12月3日

まぼろしの神経戦

「天井裏にいる奴らだよ。それ以外考えられない」
 男はアザだらけの顔を私のほうへ向けて声を漏らした。
「つまりあなたは、謎の集団に夜な夜な頭の中をいじり回された揚げ句、目玉を盗まれたというのですか」
 私は思わず吹き出しそうになるのをこらえて、ゆっくりと訊ねる。男は軽くうなずきかけてから、慌てて首を振った。
「いいや謎の集団じゃない。奴らは俺の子孫なんだ」

 男の言い分はこうだ。何十代も先の自分の子孫が、時間を遡って自宅の天井裏に潜んでいる。奴らは夜毎降りてきては暴力を振るう。最近とうとう眼球を奪われてしまった。時折、奪われた俺の目玉が今どこかで見ている光景がフラッシュバックのように頭に飛び込んでくるが、それはこの世のものとは思えない酷い光景だ……。
 男は貧乏揺すりを続ける膝に手を載せて、泡のついた唇を開く。
「理由なんて知るもんか。とにかくあいつらはまともじゃないんだ」
 落ち着きなく体を動かしながら、消え入るように続けた。
「朝起きると、体がアザだらけになってる。だけど何も覚えてないんだ。……かと思えば、鉈でぶち殺された記憶なんてものがあるんだよ、ズタズタに切り裂かれて……」
 私はかまわず機械的に質問を続けた。
「だけどおかしいですね。あなたの目は今、ごく普通に私のことを見ておられる。特に変わった様子もないようですが」
 男は激しくかぶりを振った。
「冗談じゃない。俺には今、あんたの声しか聞こえてない。何も見えてない。俺の目は空洞なんだ。俺の目玉は奴らの手元にあって、今頃恐ろしい場景を」

 私は彼の目に顔を近づけていった。
「見えるでしょう? あなたは見えているはずです、本当は」
 男の顔面は蒼白になった。
 声にならない叫びが言葉に変わるのに、数分間を要した。
「……今、俺にそっくりな顔が、だけどまるで死人みたいに無表情な顔が目の前に、いや頭の中に飛び込んできて、そいつは手に、鉈を持っていた。ああ、今度こそ俺は殺され」

 男が言い終る前に、私は手にした鉈を机上の眼球に振り落としていた。
 ぐふ。
 という息を残して男は悶絶する。

 暗い部屋。我々の前には潰れた目玉の欠片が薄汚く散らばり、頭を機械に喰わえ込まれた男が天井から絞首刑のようにぶら下がる。だらしなく足が揺れていた。アザだらけの狭い額に滲む脂汗。
 掃除中。頭ノ中ヲ掃除中。多少ノごみハ残ルケレド。誰かがそう呟くと、我々は堪えきれずにゲラゲラ笑い出す。ゲラゲラゲラゲラ。静寂……

 そして今日も天井裏で夜を待っている。

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未明

 列車は夜にさしかかり、次の駅はテラノミチですと告げられ妻は顔を曇らせた。窓は疲れた顔の夫婦を映しそのむこうに田圃がひろがりそのむこうは闇。時お り近くの座席で中年女らしい独り言がきこえるほかは人の気配がなく、それでいて座席はほぼ満席だ。テラノミチには知り合いがいるわ、と妻は窓の向こうの私 に言う。暗い景色の流れに浮かぶ私の顔はうつろな目を上げてこちらを見るのだが、言葉を返す様子はなく、闇の濃い田園の果 てのほうに気がいっているようだ。ここから見える視界の限界あたりの場所で、今何が起きているのか、永久に知らぬ まま列車は夜を走り続けている。手に負えない推移の連続的な眩暈は、闇に隠されてただ気配としてだけつながっていて、背筋をつたわり気が遠くなりかける。 そこへ車輌のドアの開く音がグシャッ、と響き、明るい車内の映像に焦点が結ばれると、小肥りな車掌が近づいてきて、妻の名前を呼んでいる。妻は自分の鞄を 手に持って立ち上がると、車掌のあとを消えた。立ち上がるとき妻は、窓の中で私と目が合ったのかもしれない。明日の午前四時頃、列車は故郷の町を通 過する。なだらかに広がる斜面と蛇行する川があの町だ、そのとき妻はどんな感想を口にするだろう。夜の窓に映る顔は病人のようだ。列車の揺れがだんだんと 心地よく瞼に響き、遠くから踏切の音が、たちまち近づいてまた遠ざかるのを聞いたあたりで、どうやら眠ってしまったらしい。ふと、水底から浮き上がるよう にして気がつくと、車内の顔ぶれが少し替わっていて、いくつか話し声が聞こえ、空と町の接するあたりが薄明るくなりかけている。夢を見た気がするのだが、 思い出そうとしても子供のときに見たサーカスの夢にすりかわってしまい、それは目の前を行き来する空中ブランコにいつまでも跳び移れず、うしろには次の乗 り手がずらりと並んで順番を待っている。そんな夢だ。そのむこうにぼんやりかすんでしまった夢のことを思うと、胸騒ぎがする。時計を見ると四時半を回って いた。妻は、と気づいて見ると隣は空席のままで、しばらく待ったが踏切を二つ過ぎたところで車掌が通 りかかったので、私は呼びとめた。妻はどこへと訊くと車掌は首をかしげた。故郷の町の名を告げ、もうそこは通 り過ぎてしまったかと問えば、いいえ先ほど人身事故があった関係で、列車は予定より大幅に遅れております。事故後の処理に、とても時間がかかってしまいま した。あんな時間に飛び込みなんて、とても珍しいことなのです。まだ若い女性だったようです。不幸なことです。しかもあんな田圃の真ん中の、さびしい踏切 だったというのに。私は、その残酷な光景をまざまざと見たように感じながら、それでもテラノミチはとっくに過ぎただろう、じゃあ妻は、君に連れていかれた あと、テラノミチで降りてしまったのかも知れない。妻は、知り合いがいると言っていた、あのテラノミチの駅で。きっとそうだ妻は、あの窓の外に続いていた 闇の中の、おそらくそこで妻を待っている誰かのところへ、私は、それにはちっとも気づかず、ここにこうして置きざりにされて。と、ぐったり途方に暮れる私 に、すると車掌は、冷たく首を横に振ってみせた。いいえお客さんテラノミチなんて駅はありません。奥様をお連れしたというのも何かの間違いでしょう。それ にお客さんは、最初からずっとお一人で、そこに座っておられたのではないですか? お隣りは、はじめから空席ではありませんでしたか? 列車は間もなく ○○に着きます、そうして車掌は固い笑みを残して、ふらりと後ろ姿を向けて車輌を出てゆく。その背中に向かって私は、音をたてて閉じるドアに向かって私 は、身を精一杯乗りだして、いや私は妻と二人でこの列車に乗っていたし、この窓に二人の顔が映っていたし、テラノミチへ引き返す列車には、どこから乗れば いい? たしかに妻は、テラノミチには知り合いがいると言い、そして妻は、愛する妻は、私のとなりにいて、暗い窓の向こうに並んで座っていた妻は。

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死面疽

  写真にうつっている顔はふたつあった。ひとつはよく知った自分の顔。もうひとつは自分とよく似た別の顔。背景が暗いのでその白い顔は鮮明に浮かび上がって 見えた。首のあたりに貼り付くように、本当の顔と較べてかなり小さいが、目鼻も同じように小さいのでつくりのバランスは本物と変わらない。ただし「表情」 はどう見ても異常で、生きた人間のものではなかった。

 これを医師の知人に送ったところ折り返し電話で死面疽と診断された。人面疽といえば人の顔に見える腫れ物だが、ここにいう死面疽とは自分の死顔が腫瘍と なって皮膚に現れたものである。これに罹った患者は徐々に衰弱してとうとう腫れ物と同じ顔にやせ衰えて死ぬ、と云われている。だが古い文献に名前が残って いるだけで少なくとも近代以降の医学史にこの病が登場したことはない。載っていた文献の名も忘れてしまったので、本当にあった言葉かどうかも心許ない。つ まり我々はこれを病気とは認めない。知人はそう語っていた。

 いずれにせよ私の首に気味の悪い顔が貼り付いたことに変りはない。死病であろうとなかろうと、この忌まわしい腫れ物は私の人生に暗い影として取り憑いた。

 くだんの写真の現像を頼んだ馴染みの写真店主は、私のかわりに妻が受け取りに来たことを戸惑いながら、「二重露光だと思うんですがね……」と云って写真 とフィルムを見比べたという。妻からそんな話を聞かされながら、私は首に巻いた包帯の下でひそかな笑い声のような音が漏れるのを感じていた。しかしそのこ とはまだ妻にも云っていない。

 欠勤を続ける私を心配して、あるいは滞りがちな仕事を憂慮してだろうか、上司から電話があった。
「どうだ、調子はまだ悪いのか」
 聞き慣れたざらざらした声が受話器に響く。
「じきに死ぬよ」
 私は唇が冷たくなるのを感じた。答えたのは私ではなかった。
「どうしたんだおい、気は確かなのか」動転したような声を遠くに聞きながら、私はいつのまにか電話を離れて、ベッドに潜り込んでいた。

 妻は私といるのが気詰まりらしく、何かと用事を見つけて家をあける。
 一週間は取り替えていない包帯がいやな匂いをたてはじめた。
 私は最近ひどく無口だ。喋ろうとすれば、かわりに別の口が喋り出すかもしれない。そう思うと口をきく気にはなれない。あの声を二度と聞きたくはなかった。
「馬鹿なこと考えるな、ただの腫れ物だよ」
 電話の知人は笑うだけだった。
「じきに死ぬよ」
 と腫れ物が答えていた。

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部屋にいる子供

 あんまり知らないんですよぼく、怖い話って。
   だから皆さんみたいに、身の毛のよだつようなオソロシイ話はできないんですけど……じゃあひとつだけ、人から聞いた話なんですけどね。
   ええと、うちの店の常連客で、石黒っていうヤクザがいるんです。
   その人がね、お化けを見たって言い張るんですよ。本当かどうか知りませんよ、うちみたいなカレー屋で、飯食ったあと二時間も雑談していくんだから、ヒマな人には違いないんだけど……。
   その日石黒さんは三時半頃店に来て、ほかに客のいない店内でメンチカツカレーを注文しました。そして青い顔して言うわけです。
   ついさっき幽霊を見ちゃったって。
 石黒さんの住んでるのはアパートの二階で、そこはうちの店から歩いて五分くらいのところにあります。彼が引っ越してきたのは一昨年ですから、もうそれな りに長く住んでるわけですが、あまり地元の情報には詳しくないですね。近所の人とも全然交流ないみたいだし。なにしろ見るからにカタギじゃない顔してます からね、あの付近で何か事件が起こると、きっと犯人はあの人に違いないって必ずウワサになるんですよ。本人は知らないみたいですけど。
 うちの店には引っ越して間もない頃からよく顔を見せて、カレー好きみたいでね。はじめは私も緊張しましたけど、ご飯の一粒も残さずきれいに食べる人で、 だんだん好感持ったんで、ちらっと「いつもありがとうございます」なんて話しかけたんです。そしたら石黒さん、途端にぺらぺらとしゃべり始めて、それから は毎回、わざわざ空いている時間にやってきては、長話をしていくようになったんですよ。
 で、このあたりに安い床屋はないかとか、最初はそんな話をしてたんですが、そのうち彼のお父さんの実家のサクランボ農園の話だとか、酒が弱くてビール一 杯で熟睡するとか、ご自分のことも色々話してくれるようになりまして。私なんてもう、自分の女房とかよりも、石黒さんの身の上のほうに詳しくなっちゃっ た。そんな感じなんですけどね。
   そうそう、それで石黒さんの住んでるアパートなんですが、じつはちょっと因縁のあるアパートなんですよ。……ちょっとじゃないか。かなり、かな。
   今から十年くらい前ですけど、新聞にも載った事件で、小学生の女の子が義理の父親に殺された事件って覚えてます? あれの舞台になったのがじつはそのアパートなんです。
 殺された女の子は押し入れに一年間押し込めっぱなしで、近所でも変な匂いがするって評判になってたみたいです。それから最近やたらハエが多いってね。犯 人の男は妻に逃げられて、女の子と二人暮らしだったんですが、子供の姿が見えなくなっても近所の人は「きっと親戚が引き取ったんだろう」って思ってたみた いです。
  「そのほうがあの子にも幸せだ」なんて言いながらね。
 発見された死体は、干からびてほとんどミイラみたいだったそうです。義父に首を絞められた時の表情なんでしょうか、物凄い形相のまま死体になっていたと 聞いてます。立ち会った警官が恐怖のあまり寝込んじゃったとか、それはパーマ屋のおばさんが言ってたのかな。だとすればあんまり当てにはならないけど。
   とにかくまあ、そんな事件があったわけですから、事件後の部屋はしばらく借り手がつかなかったみたいです。アパートのほかの部屋の住民も、歯の抜けるように出て行っちゃって、ほとんど廃虚みたいになってた時期もありました。
   その後外壁や内装を全面的に改装して、建物の名前も変えてしまったんです。なんだかすっかり洋風な名前になっちゃいました。
   で、事件から一年以上経つ頃には、ふたたび部屋も埋まって、それからは何事もなかったように月日が過ぎました。私もいったい何号室で事件があったのかすっかり忘れてましたし、改装工事のあと、部屋   番号も振りかえてしまったみたいですね。事件に関する世間の記憶を撹乱しようというわけでしょうな、大家としては。
   ところがですね、ええとこれは電気屋のオヤジに聞いた話なんですが、出たらしいんですよ、その部屋に。
   幽霊です。殺された女の子らしい人影が、部屋の中をさっとかすめるのを見たんだって。それをクーラーの出張修理に出向いた、電気屋のオヤジが見てしまったと。
  「急いで修理済ませて帰ってきたけど、帰ってからようく思い出したらやっぱりあの部屋なんだよ事件があったのは。もう二度とあのアパートには入りたくない」
   なんて言って、ブルブル震えてるんですよ、いい年した禿頭のオヤジが。
   私はまあ気のせいじゃないかって思ったんですけどね。
 ところがそれから半年くらいすると、今度は集金に行った新聞販売店の人が見てしまったらしい。例の部屋の、玄関でお金を受け取っているとき、部屋の奥で ちょろちょろ動く影がある。誰かいるのかなあと思って何の気なしに見てると、小さな女の子が押し入れから這い出そうとしてるところなんです。
   すっかり血の気の引いてしまった彼は、口をあんぐりあけたまま動けなくなった。
   それで部屋の住人からは「どうしたんですか?」って心配されちゃって、思わず今見たものを正直に話してしまったらしいんです。
   それから、このアパートでかつて殺人があって、殺されたのは女の子で、場所はたぶんこの部屋なんじゃないか、ということまで全部。
 住人(若い男だったそうです)はそのときは笑いながら、「そんな馬鹿なことあるわけない、今まで住んでいて何も見たことないですよ」なんて言ってたらし いですけど、それからすぐに彼は引っ越してしまった。こういう話聞いちゃったら、ちょっと住んでられませんよね普通。
   次に部屋を借りたのもやはり事情を知らない人だったらしいです。まあ当然でしょうか。
   ただその人は宗教やってる人みたいでした。なんたら言うモダンな名前の教団の女性信者で、夜中にブツブツつぶやく声がするって、はじめはそれが幽霊だと勘違いされたみたいです。近隣の人たちからは。
   ほんとは何か経文みたいのを唱えてた声らしいですよ。まあそれにしてもじゅうぶん周りからすればブキミですよね。あの部屋はやっぱり祟られてる、だからあんな変な人が住むんだ、なんてウワサされてました。
   私に言わせれば、祟られてるっていうより、みんなが住みたがらない部屋ですからね。入居審査も甘くなって、普通なら断られそうな人でも借りやすいってことだと思うんですけど。
   実際、アパートの住民全体を見渡しても変った人が多くなりました。いわゆる堅実なサラリーマン風は一人もいなくなったかな。平日の昼間からウロウロしてる人が多いし。
   そんなわけで、ヤクザの石黒さんもそのアパートに部屋を借りることになったわけです。
   お察しの通り、彼が借りたのは例の部屋です。石黒さんと話をするうちに、そのことは薄々勘づいてはいたんですけど、黙ってましたよ。あまり度胸のありそうな人じゃないから気の毒だし、それにやっぱりちょっと、言うのに勇気いりますよね。
   それなのに、引っ越してから一年半も経ったその日、突然彼が幽霊を見たなんて言い出すからびっくりしたというわけです。
   石黒さんは明け方頃ふと目を覚まして、便所に行きたいと思って布団を出たそうです。そしたら押し入れのフスマが十センチくらいあいている。べつに何とも思わずに用を足してふたたび眠って、朝になって見ると今度はぴったり閉じていたって。
   はじめは寝ぼけたかと思って、いやもしかして泥棒じゃないかと思い直した石黒さんが、意を決してフスマをあけると、中には小さな人影がちょこんと座っていました。
   石黒さんは失神してしまったそうです。気づいたときは昼過ぎで、もう押し入れには何もなかった……。
   カレーを食べ終った石黒さんはすっかり暗い顔になって、あれは祟りに違いないって言うんです。すべてを教えてあげようと決心した私をさえぎって、彼はいつもと違う沈痛な声で、ぽつりぽつりと語り始めました。
   俺はヤクザだけど人殺しは一度しかしてない、それはじつは幼稚園の時なんだって。
   幼稚園の同じ組に好きな女の子がいて、石黒さんはいつもいじめてばかりいたそうです。その日のプールの時間、いつものようにいたずらっ子ぶりを発揮した石黒さんは、女の子の背中を見つけると、うしろからプールへ思いきり突き飛ばしてしまった。
 それがあまりに突然だったせいか、幼児向けの、浅い水たまりみたいなプールなのに、本当は泳げる子なのに、女の子はおぼれてしまった。幼い彼がただ呆然 と見守る中、異変に気づいた保母さんにようやく助け上げられた女の子は、すでに体が冷たくなってて、病院に運ばれても二度と目をあけなかったんだそうで す。
   その後、石黒さんの一家は逃げるように別な町へ引っ越してしまったので、石黒さん自身は一度も女の子の墓参りをしてないんだって。
   そのことは、やたら気に病んでましたね。
   きっとあの子に違いないって、彼は言うんですよ。ちょうど今頃の季節だった、あれから三十年以上経つけど、いまだあの子は俺を恨み続けて、浮かばれてないんだって。
   ……どうしたもんだと思います? ええとつまり、石黒さんにあの部屋の因縁のことを、教えてあげるべきかどうか、なんですけど。
   いったいどちらの幽霊だったほうが、彼にとっては幸せなんだか、不幸せなんだか。
   罪悪感に苦しんでるのは、見ていてすごく気の毒なんですけどね。
   かといって、あんなに真面目に悩んでるところへ、水を差すようなこと教えるのも何か気が引けるというか……相手は店のお客さんなんだし……それに……
   やっぱりヤクザだから、ちょっと怖いし。

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手首

 中学の同級生だったカオリさんが死んだのは去年の秋でした。
   死んだのは線路の上です。貨物列車が通り過ぎたあとに残ったのはバラバラの部品に分かれたカオリさんの体でした。 ただ左の手首から先だけがどこにも見あたらなかったそうです。
   このことについては少し思い当たるところがあります。
   教室のカオリさんはいつもつまらなそうな顔でした。クラスのみんなが先生の話に笑ったり私語に夢中になっている時も、カオリさんの目は天井や床や窓の外をうろうろとさまよっている感じで、彼女の頭はきっとこの教室の中にはないのだなと思いました。
   なんでこんなこと知っているのかというと、ぼくはカオリさんのことをとても気にしていたのです。
   好きだったのかも知れません。
 高校時代も一度だけカオリさんに会ったことがあります。そのときカオリさんは背の高い女の子といっしょに町を歩いていました。 手をつないでいました。ぼくはすぐにカオリさんだと気づいたのですが、なんとなく声をかけづらくてそのまま歩いていきました。暑い日でした。アスファルト に陽炎のたちのぼる午後でした。地下鉄の階段を下りようとしたところ、後ろから女の人の声がしました。
  「久しぶりね何してるの」
   振り返るとカオリさんと背の高い女の子が立っていました。手はつないだままです。ぼくはどんな顔をしていいのかわからず、結果ろくに返事もできませんでした。けれどカオリさんはおかまいなしに話しかけてきます。横には背の高い女の子がすました顔で並んでいます。
  「ねえイリチくんこの人誰だと思う? この人あたしの言うこと何でも聞くのよ。この人には意志がないの。すべてあたしの思いどおりなの。いいでしょう。とてもかわいくておりこうなのよ。ほらちゃんとおじぎしなさい」
 背の高い女の子はちょこんと頭を下げました。思わずぼくもおじぎを返しました。その後で何ともいえない変な気持ちでカオリさんと女の子の顔を見比べまし た。顔だちは違うのにマネキン人形のような表情が姉妹のように似ています。カオリさんは女の子の手をにぎったままの左手をみせびらかすようにして言いまし た。
  「こうして手をつないであげると安心するのよ。この人は意志のない人だからかわりにあたしの意志をこうして手のひらから分けてあげているの。だから一日中ずっと手をつないであげているの。ほらこうして絶対とれないようにしてね」
   見るとカオリさんの左手は穴をあけてちいさなチェーンが通してあり、そのもう一方の先が女の子の手のひらに刺さっていました。
  そうしてチェーンは二人の手のひらを貫いて輪をつくっているのです。ぼくは複雑な気分になりました。見てはいけないものを見てしまったような、困った気持ちになって思わず目を伏せたことを覚えています。
  「それじゃあたしたち行くからね」
   じつはカオリさんがバラバラになって死んだ日、ぼくは久しぶりにあの背の高い女の子の姿を見かけていたのです。地下鉄が地上を走っている駅のホームで、女の子は相変らずマネキン人形のような顔でひょろりと立っていました。
 女の子は何かをくるんだ包装紙のようなものをひとつ手に抱えていました。ときどき紙を少し開いて、中身をつまみ出すとポリポリと噛っているようなので す。ぼくは隣りのホームから眺めていました。電車が幾度となく発着を繰り返しましたが、人込みが切れると女の子はいつもそこに立っていて、同じようにポリ ポリと何かを噛っているばかりです。手にした包装紙から小さな細いものがこぼれ落ちるのが見えました。瞬間キラリと光ったそれがあの時のチェーンに見えた のは、単にぼくの気のせいだったのかも知れません。
   だけどその時すでにカオリさんが電車に轢かれていたなんて、ずっとあとになって知ったことなのです。
 あの暑い日の午後に会ったっきり、カオリさんと女の子がその後どうしていたのかぼくはまったく知りません。でもカオリさんにとって背の高い女の子は宝物 だったと、ぼくはあの日のカオリさんを思いだすたびに思います。そしてたぶん女の子は、すべてカオリさんの望むとおりにしてあげていただけなのだと思うの です。
   だってあの背の高い女の子には、意志というものまるでがないのですから。

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幽霊写真

「それがね、きまって深夜の二時頃なのよ」
   白田真弓は、細い煙草を灰皿の上で二度たたいた。崩れた灰が雪のように降る。
「ドアに備え付けの郵便受けが、カタンと鳴るわけよ。私たいてい夜更しだから、テレビ見たり、友達と電話してたりするのね。すると玄関でカタンと音がし て、最初は何の気なしに見にいったの。誰か隣近所の住人が酔っぱらって帰宅したのかなあって。そしたら、封筒が入ってたわけ」

 そう言うと、女はハンドバックから茶封筒を取り出した。どこの文具屋にも売っている一番安い封筒だ。表には何も書かれていない。
「もちろんそんな時間に郵便なんて来ないし、チラシだって入るわけないじゃない。だからこれはヤバイなあって思ったのよ。前にも一度、変な男につきまとわ れてさあ、消印のない手紙が毎日のように届いたことがあったし。またその手の奴かなあってゾッとしたわけ。でも封筒を手に持った感触からして、どうやら写 真なのよ、中身は」
   手入れの行き届いた指先が封筒の口から差し込まれ、一枚の写真が引っぱり出された。

 若い男女数人が、カラオケボックスらしい室内でポーズを取っている。ごくありふれた、ピントの甘いスナップである。
  「これ見て少しほっとしたの。私を盗み撮りした写真でも入ってるんじゃないかって、ヒヤヒヤしたから。でもこんな写真、写ってる顔に全然心当たりないし、不気味でしょう。それでようく見たのよ。目を皿のようにしてっていうの? そしたらほら、ここ見てよ」

 ピンクの爪が写真の一点を指さした。マイクを握って何やら大声を張り上げている様子の男の肩に、女性のものらしい、やけに白い手首が載っかっている。  
   位置から考えると、男の向かって左側に立つ女の左手のようだが、彼女の両手はしっかり自分のマイクを握りしめていた。よく見れば、写真に写っている人間の両手はすべてそろっていて、その左手がひとつだけ余る。  
  「ね、気持ち悪い写真でしょ。こんなの夜中に見せられたもんだから、最悪よ。すぐ友達に電話して来てもらったけど、朝まで眠れなかった。明け方になって少しウトウトしたけど、嫌な夢見てうなされるし。もう最悪」  
   女は写真と封筒をバラバラにハンドバッグにしまうと、新しい煙草に火をつけた。
   ウェイトレスが近づいてきて、灰皿を交換していく。
「それがもう三ヶ月くらい前かな。その後一週間くらいは何もなくて、まあ悪質なイタズラだと思ってたのよ。不特定多数と顔合わせる仕事だし、犯人はつきと めようもないかなあって、あきらめて忘れてたの。そしたらある晩、ベッドの中で眠りかけてたら、カタンって音が聞こえたわけ。ハッとして布団を飛び出た の。案の定、郵便受けには封筒が入ってた。すぐ覗き穴から外を見たけど、もちろん誰もいないわよ。ドアを開ける勇気はなかったの。だってすぐ横の死角に潜 んでるかもしれないし。封筒を取り出して、すぐ友達に電話したわよ。眠ってたらしくて機嫌悪かったけどそんなこと構ってらんないから」  彼女は大きく煙を吐いた。不健康そうな唇がしばらくポカンと開いたまま、女は何かを思い出そうとしているようだった。白目がちな両目が宙をさまよってい る。
「そうそう、それで一人で写真を見る勇気がなくて、友達を待って一緒に封を開けたの。そしたら今度は、海辺にカップルが並んで写ってる記念写真なのよ。ど うってことないような写真ね。前の写真と比べてみたけど、写ってる人は別人だった。だけどしばらくジロジロ眺めてるうちに、友達が背景の一カ所を指さした の。それは遠くの岬が黒い影になってる部分なんだけど、写真を横にして見ると、お婆さんが目をむいて睨んでる顔なのよ」

 ふたたびハンドバッグの口が開かれた。写真屋でもらうような小さなアルバムが、二冊取り出された。表紙に「幽霊写真」とある。
「これがその時の写真。ほらね、こうして見ると白髪のお婆さんに見えるでしょう。こんな写真持ってたら何かありそうで嫌じゃない。だから普段は男友達に預 けてあるんだけどね。全部でたぶん、四十枚以上あるわ。あれから一週間に二、三回、多いときは何日も続けて、郵便受けに封筒が放り込まれるの。それが不思 議と、友達が泊まっている時には来ないのよ。あんまり怖くて、一週間一緒に暮らしてもらったことがあるんだけど、そのあいだは一度も来なくて、帰ったとた ん来たわ。絶対どこかで私の生活を覗いてるはずよ。

  うちのマンション、セキュリティがいい加減だし、誰でも通路までは入って来れちゃうのよね。だから夜遅く帰宅するときなんか、不審な人影がないかってよく 見渡してから入るんだけど、一度もそれらしい人は見かけたことない。郵便受けはマンションの入口にまとまってあるんだけど、そっちに入ってたことはなく て、必ず玄関のドアに入れてあるのね。しかも名前も何も書いてない封筒で、ただ心霊写真が一枚入っているのよ。どういう意味なんだか、さっぱりわからない でしょ」
   二冊のアルバムには、じつに雑多な人物の写真が収まっていた。背景にも脈絡はない。ある写真は有名な観光地らしく、別な写真は中流家庭の一家団欒といった風情だ。被写体もとくに共通したところはない。顔も似ていないし、年齢や外見の印象はバラバラである。  
 ただ、どの写真にも必ず奇妙なものが写っていた。子供の誕生パーティーに盛り上がる核家族の茶の間には、煙のような老人の上半身が浮かんでいるし、古い 神社の境内に仲良く並ぶ老夫婦の頭上には、髑髏がうつろに二人を見下ろしていた。また、公園の滑り台から笑顔をふりまく少女の肩口には、もうひとつの別な 首が生えていて、そこにはドス黒い男の顔が貼り付いている。
「……友達は引っ越したほうがいいって言うんだけど、あのあたりで家賃八万切る部屋なんて滅多に探せないしね、もったいないから迷ってるのよ。でもこんな 写真わざわざ届けに来るような人、何するかわからないじゃない。ガムテープで郵便受けをふさいでも、カッターで切られちゃうし、男友達に外で見張っても らっても、そういう日に限って来ないし。ずっと寝不足なのよ。毎晩二時頃になると、そろそろ来るんじゃないかって、ドアのそばで待っているあいだは来ない のに、部屋に戻って寝ようかと思うとカタンて鳴るのよ。
 封筒を開けるといつも違う人の写真が入ってて、知らない人で、ありきたりなスナップなのに、手首が宙に浮かんでいたり、生きているとは思えない顔が余分 に写っていたり、とにかく全部が変な写真なのよ。なんだか頭がおかしくなりそうだった。陰湿でまともじゃないイヤガラセだと思った。でも最近考えが変わっ たの。これを見てちょうだい」  女は上着のポケットから一枚の写真を取り出した。そこには女--白田真弓本人が写っている。背景にはあざやかな緑の稜線。透き通る青空。白い雲。そし て……。
「これ、最近つきあいはじめた男に撮ってもらったんだけど、私の後ろに誰かいるみたいでしょ。小学生くらいの女の子がちょうど通りかかったみたいに、ここ から手が出てるし、こっちからは足が覗いてる。おかっぱの髪がちらっと見えるでしょ。でもそんなはずはないのよ、私の後ろは断崖だったんだから」
   それだけじゃないの、と言って女はもう一枚をテーブルの上に並べた。同じ景色を背景にして、今度は男が立っている。
「これがその彼なんだけど、シャツの胸ポケットに赤ん坊の顔が浮かんでるでしょう。ようするに、私が被写体になった写真にも、私が撮影した写真にも、変な ことが起きるようになっちゃったの。これだけじゃないわ。ほかにも彼と撮った写真とか、友達と撮った写真でも、私が関わる写真にはいつでも変なものが写る ようになったの。あいかわらず夜中に封筒は届くのよ。だけどそれは誰かのイタズラだとしても、私の写真に同じようなものが写ることは説明できないわ。これ は何かもっと、とんでもないことに違いない。でもそれが何なのかちっともわからないの。……なんだか疑ってる顔ね。それじゃあ試しに、あなたの写真も撮っ てあげるわ」
   いつのまにか女は使い捨てカメラを手にしていた。薄暗い店内にフラッシュが光った。

「写真、あとで送ってあげるね。血まみれの女の子が写ってても腰抜かさないでよ」
   そう言うと女はすべてを話した安堵からか、晴れやかな笑顔になってほっと息をはいた。
   四日後、白田真弓から封書が届いていた。中には一枚の写真と、話を聞いてくれてありがとうという感謝の言葉が添えられてあった。写真には見覚えのある喫茶店の内装と、ぎこちない笑顔の若い男が写っている。    もちろん、ほかに妙なものなど何も写ってはいない。さらに言えば、彼女が恋人と撮り合ったという二枚の写真にも、おかしなものは何ひとつ写ってはいなかった。写るはずなどないのだ。  
   壁の時計を見ると、午前一時を少し回っていた。今からバイクを飛ばせば、二時前には○○公園に着くはずだ。住宅街の公園だから、こんな時間には人っ子一人いない。駐車場がわりにはちょうどいい。  
   そこから白田真弓の住むマンションまでは、歩いて五分とかからない。
   だが今夜は出かけるのはよそう。今日に限らず、これからは深夜の外出は慎もうと思った。
   届いた写真をもう一度手に取って眺めた。写真の中で、伏し目がちに力無く笑う顔は、下半分が暗く影になっている。たしかあのとき、彼女はフラッシュを焚いたはずである。

 ふと思いつきで、写真を逆さまにしてみた。
   影の部分が、ざんばら髪の生首のかたちをしていた。
   目の錯覚には違いない。

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外套のからっぽな博士

 あいつのことだ。あいつを覚えているか? メガネのむこうに何もない奴……
 今夜あいつがやってくる。十年前と同じ名前。同じ姿で。人形みたいに震えた足どり、虫歯だらけの口を笑わせて。

 終電車が団地裏にジッと影を滑らせて、踏切の点滅がすべて終わる。
 これからだ! 死んでいるのに歩く男。この暗黒があいつの時間だ。錆びた時計は零時に蠢き、あいつは何度でも目を覚ます。ひどい悪夢にうなされながら、首と手足が魚みたいにピクピク痙攣しながら立ち上がったあいつ、なんて痛ましいあいつの影……

 あいつは自殺するたび強くなる。あいつが怖い。眠れない。
 あいつは幽霊なんかじゃない、現実だ!
 イヤな目でこっちを見てる。
 あいつの頭の中は薄暗い廃屋。
 あいつの口からもれるのは墓場の静寂。
 誰もいないあいつの世界。
 いつかあいつに殺される。あいつの世界に呼び出される。
 どうしよう、逃げればいいのか、どこへ?
 あいつのいない場所へ。そんな場所があるのか? ない。
 逃げ道ない。希望がない。この世はすべてあいつの目の前。
 腐った学生服と雑草みたいな髪の毛が、ゆらゆら坂道をのぼってくる。
 卒業アルバムにも載っていない、あいつの名前。
 誰もが忘れたいのに、忘れられない足音が帰ってきた!

          *

 ぼくはとうとう生きているのがダメになり、屋上の柵の外へ立ってみたんですけど、ぼくはあんまり高くて恐ろしいので、もらしたおしっこがズボンの中でさ らさら流れて、つま先のずっと下で小さな頭がグラウンドのすみっ子でおしゃべりしてた、女の子のあたまにぽたぽた垂れて「雨!」って、その子が上を見てぼ くと目があった。恥ずかしい! おしっこしてるところ見られた! ……気がつくとぼくは地面 に顔をつけて笑っていました。

 おかしくないのに口がひらいて、ほっぺたがひきつって動かないのでぼくは笑っている。笑い声のかわりに血がたくさん出て、ぼくは女の子に「あれは雨じゃ ないよ、おしっこだよ!」と云おうとしたけれど、うがいみたいにブクブクいっただけで、すぐに息も出なくなった。
 たいへんだ! 息をしないと死んでしまう! でもちっとも肺がぴくりとも動かず、ぼくは自分から流れた水たまりのうえで顔も知らない先生や、校長先生の 見たこともない青い顔を横目に見るうちに気が遠くなり、サイレンが聞こえてるなあ、怖い、怖い、と思ったらそこは何だか救急車のなかでした。

 でも、むりやり酸素を押し込んでくる機械や、無線のあわただしい声よりも、車の外で道路わきのドブ板のうえを黒い外套が雨雲みたいにすーっと通るのが、墜落ショックで薮睨みになったぼくの目玉にはよく見える……黒い外套の背の高いおじさん。おじさんが名前を呼ぶので、ぼくは車から降りて目の前のどぶに入り、くさい水の底へゆらゆらと沈んでいきました。
 ボロボロに折れた手足が勝手に泳いでくれる、ぼくはカナヅチなのに! あの真っ暗な虫の死骸でできたビルの屋上まで、ぼくらは無事に沈んでいきました。 「未確認世界研究所」の看板が目に入るまで、おじさんがどこかの博士だということをぼくはまるでしらなかった。

「それじゃ博士、ぼくはやっぱり死にましたか」
「気にすることはないね、少年。死人が生き返った先例は数え切れないのだから」
「博士、ぼくは息ができないので、喋れません。これじゃあぶたれても『ヤメテー』っていえないです」
「一度死人になった人間を、殴るような度胸の持ち主は珍しいのだが」
「それじゃあ博士、ぼくは明日も学校へ行けるのですか?」
「明日だけでなく、このまま永久に中学一年生だろう」
「なんだか目の前が暗いのです。まるで眠っているみたいに、ぼくのまわりが薄暗くてつめたい、博士の顔はよく見ると外の工場の煙が揺れてそう見えただけ で、博士の声も、遠くで犬が遠吠えする声がそう聞こえただけかもしれない。だからほんとうはぼくはまだ救急車の中で、赤信号をいくつも振り切って走る、白 い車体の中で、忙しく動き回る影に囲まれて、著しく形の崩れた子供がひとり、手遅れの処置を施されながら少しずつバクテリアの餌食にされている。折れた首 はともすれば車の振動に合わせて捻れ、ありえない方向を振り返り、白目をむいて誰にでも陽気な挨拶を送る、こんばんは、こんばんは、ぼくがあなたの地獄で す。こんばんは、もしも写 真に余分に写っていたらそれはぼくの手、握手をしよう、この手と、こんばんは、屋上の、柵の外でぼくと握手、昭和六十三年九月九日、午後三時四十四分、も うじき西瓜みたいに頭のかち割れるぼくと、きみと握手」

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ダイヤル探偵の崩壊

 日本のどこかで悲惨な殺人が行われるたび、男の部屋の黒い電話機はリリリ……と甲高い音を立てる。
 使い込まれた古い電話機、通称殺人テレフォン。ダイヤルの穴のひとつひとつに、男の指紋が年輪のように刻み込まれた黒電話の受話器を、呼び出し五回以内で素早く取るのが彼のルールだった。
 そのために彼は、めったに外出などしないし、風呂にも入らない。いつ何時、この部屋で悲しいベル音が鳴り響くかわからないからである。じつに周到で、仕事熱心な男だ。
 考え事だって、一分以上することはない。男の頭の中はいつでも電話のために場所を空けられていた。
 というわけで、読書などもってのほか、彼は音声を消したテレビを散漫に眺めるくらいしか娯楽を知らない。とにかく部屋の中はつねに静寂を保つ必要があったのだ。
 だからニュース番組を見ても、キャスターたちは口をパクパクと開閉するだけで、情報は何も伝わらない。しかも画面に表示される文字は、ブラウン管が古すぎてひとつだってまともに読めないのである。
 そのかわりに男は、毎日のニュース内容を自由自在に空想することができた。借金苦で一家心中という暗いニュースを伝える画面を眺めながら、「長年の社会 奉仕活動を認められ表彰された親切一家が、政府から一億円をプレゼントされた。ところが親切一家はそれを全額、恵まれない人々に寄付してしまった。さすが は親切一家だ」という涙の出そうなエピソードに変換することができるのだ。
 だが、そうしたニュースにいちいち感動している時間は彼にはなかった。この国では殺人はつねに発生している。電話のベルは休むことを知らない。

 男の職業は探偵だが、ここに掛かってくる電話は、とにかく殺人事件のたびに鳴り響く例の電話以外にはまるでない。本当にひとつもないのだ。
 ここの番号を知っている人間は、この世に一人もいない。電話帳に掲載されていないばかりか、何しろ男自身だって知らないのだから。
 頭の中に番号がしまい込まれていれば、うっかりどこかで漏らしてしまう可能性がじゅうぶんにある。だから男は、もう二十年以上にわたってここに住んでいるけれど、未だに電話番号を覚えていない。
 番号を知っているのは、日本中でたった今殺された瞬間の人間だけだ。全国どこからでも彼らはたちまち男のところへアクセスしてくる。彼らの怨みと無念のドロドロした言葉を聞いてやるのが男の主な仕事だった。
 何しろ非業の死を遂げたばかりの人間が、たった一度だけこの世に心情を吐露する機会なのだ。ひとつ残らず電話を受けてやりたい、と男は思う。だが、複数の人間が同時に惨殺された場合、つながる電話はそのうちたった一本。ほかのやつらは話中で、無念のままあの世行きだ。
 そのことを思うと、男は残念さのあまり不愉快な気分になった。だからできるだけそんなことは考えないようにしている。

 リリリ……。1コール目ですかさず受話器をキャッチ。
「もしもし、ひまわり探偵事務所です」
 慣れた口調で電話に出る男。口元には薄笑いさえ浮かべていた。
「ええとあなたは……うんうん、なるほど。バールで脳天を一撃、叩き割られちゃいましたか。そりゃあ痛そうだ、内ゲバというやつですね。ふむふむ、そいつ は又お気の毒。革命の志半ばにして、この不正の蔓延る世間を放ったらかしのまま死ぬなんて、さぞかし無念でしょう、お察ししますよ。……おやおや、しかも あなた死ぬまで童貞だったとは! それでは現世に未練も尽きまいというものだ、心から同情を禁じ得ません。でも、じつはね」
 ここで突然、男は声をひそめた。
「……私も童貞なんですよ。仕事があまりに忙しくってね、なかなか女性と知り合うチャンスがないんですな。仕事にしか興味がないとか、堅物のマジメ人間と いうわけじゃないんですが、ついつい奥手で、この齢にまでなってしまいましたよ。だけど仕事はずっとこの通り多忙を極めていまして、当分女にうつつを抜か す暇はなさそうです。まったく、どうして人がこんなにいっぱい死ぬんでしょうねえ、私は一体いつまでこの作業を続ければいいのだろうか」

 神社の境内には十人ほどの若者たちが集まり、神妙な顔で車座になっていた。何人かは金髪で、またシャツからむき出しの肩に入れ墨の見られる者もあったが、それでもどこか草食動物のように優しい目をしている。
 リーダー格らしい小柄な男がひょっこり立ち上がった。
「それでは、今夜の怪談会を始めたいと思うんだけど、心の準備はいいかな? もし、怨念を残しちゃってる死人に祟られたとしても、責任はとれないからね。 それがいやなら今のうちに帰ること、あとで文句は言いっこなしだよ。……それじゃあ最初は、黒メガネのタカシ君、よろしく」
 指名された気の弱そうな少年の方へ、一同の注目が集まる。少年は女性のようにしなやかな指先でメガネをずり上げた。
「それでは、前座をつとめさせてもらいます(一同笑)。いやいや、本当に怖い話はナガシマ君あたりにお任せして(笑)、ぼくのはそんなに怖くないですか ら。……これはぼくが知人から聞いた話です。その人は学級委員なんかもやっていて、信用できる人物だと思うんだけど。彼がある日、親類の葬式に行ったとき のこと。親戚一同マイクロバスに乗って、火葬場に向かう途中でした。車内で、故人の昔話が始まったんです。死ぬまで独身だったけど、彼にもいい人はいたの かなあ、なんてことを故人の従兄の皺だらけの老人が呟いたり。しかも言い終わる前に入れ歯がぽっかり外れたりして、バスの中は笑いに包まれていました。
 そういえば、と言って、故人の姪に当たる中年女性が口を開きました。××さん死ぬ間際に、どこかに電話してたことがあったみたい。いえいえ、もちろん寝 たきりだからロビーに出たりはできないんだけど。寝言みたいにね、もしもし、もしもしって何度も口にしてたわよ。ベッドの上で。だから私耳元で、もしも し、て答えてあげると××さん、目をつむったままニッコリ微笑んで、たしか、ひまわり探偵事務所です。ってか細い声で呟いたの。いったいどんな夢見てたの かしらね、と中年女性は懐かしそうに目を細めて語ったので、バスの中は、故人のユーモラスな人柄を偲んで柔らかな空気で充たされました。そして火葬場まで 笑いが絶えなかったそうです。おわり」
「おいおい、それのどこが怪談なんだって」
 リーダー格の男が頭を抱え、あきれ顔で訴えた。その場にいた全員が、とまどいの隠せない表情でメガネの少年を見つめていた。
 まずいことだ。ここで白けムードが広がると、今夜の怪談会は台無しだ。そう判断したリーダー格は、少年を責めるより、早く場の空気を変えた方が得策だと瞬時に判断したらしい。
「……でもトップバッターにふさわしい、ハートウォーミングな話題だったってことは言えるよね。じゃあ、次はチハルちゃんの番ってことで、とびきり寒くなるようなのをひとつよろしく」

「はい、ひまわり探偵事務所です」
 今日もその部屋に電話のベルは響きわたる。「バールで脳天を一撃、ですか。ははあ、それは気の毒だ。内ゲバというやつですね」
 男の頭から、細かい霧状のふけが飛んで机の上に積もっていく。まったく、こう殺人ばかり多いと人類はそのうち滅亡してしまうのではないか? その前に、私もぜひ恋人をつくりたいものだ……。
 男は不覚にも、ついぼんやりと考え込んでしまった。そのために、電話の声を聞きそびれてしまったようだ。
「えっ何だって? もしもし」
 ツーツーツー。死者はすでにあの世へ旅立ったらしい。悲惨な殺人の犠牲者が無念の思いを吐き出す電話。理不尽な死を嘆き、呪詛の言葉をつぶやくための唯一のダイヤル。こんな大事な電話を、はたして素性の怪しい探偵一人にまかせておいていいのだろうか?
 そう考えると私は、今夜もまた眠れなくなるのだ。

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廻転

 見て見て見て。
 骨が見えるでしょほらね。がしがしってこするのよ。がしがしって。この頬のあたりよ。そしたらほら見えたでしょ、骸骨。たぶんこすられたとこの 肉が瞬間薄くなるでしょ、それで透けるのよきっと。透けて見えるのよ。それで、どうかしら? きまってるでしょあたしの骸骨よ。だって前から気になってた んだけど、あたしの骸骨って黒いじゃない。ね、へんだと思う? でも普通は見えないから気にしないの。気にしないことにきめているの。あんまりほっぺた触 らないようにしてる。だから誰にも言わないでね。でも死んだら焼かれてしまうでしょう? そしたら骸骨が黒いことばれちゃうわ。そんなことになったら一生 が台なしになってしまう。だって骸骨が黒かったら、子供みたいなワンピースも、ハートのついたバッグも、ぜんぜん意味がないじゃない。骸骨が黒かったら、 ばかみたいに楽しいお友達も、死ぬほど真白なお部屋も、ひとつ残らず無意味になるじゃない。
 ねえほらがしがしがしがし黒いでしょやっぱり。あたし骸骨のこと考え出すとくやしくて絶望的になるの。だってがしがしがしがしやっぱり黒いで しょあたしの骸骨。こんながしがしがしがし黒い骸骨の女の子なんてぞっとするわよねがしがし。ねえねえがしがしこすると少しずつ皮膚が摩擦で薄く透けてい く気がするわ。それであたし黒い骸骨が普段から透けてる女の子になるのがしがし。みんなあたしを見てがしがしたちまち鳥肌が立つわがしがしがし。
 鏡貸してくれる? ありがとう。ああもうすっかり手遅れだわ。ねえ今おしりまで鳥肌が立った。この際あたし骸骨の黒い女の子ですって立て札 持って歩こうかしら。だってみんなあたしの噂してるのよ。ひそひそ喋られるのって嫌いなの。鳥肌が立つの。ああ骸骨の黒い女が来たって顔見合わせて笑って るのよ。友達だった人も、骸骨の黒い女と話すのはいやだなって顔を必死で隠してるのが分かるのよ。電話をかけると居留守を使うし、外で会っても目を合わせ ないようにしているし。知らない人もあたしの視界から消えた途端に悪口を言い始めるの。みんな少しずつあたしのこと嫌ってるのがわかる。あたしを見た人は 心の隅で骸骨の黒い女なんか見るんじゃなかったって必ず後悔してるのよ。そのたびあたしの骸骨にぴぴぴってヒビがはいるの。するとヒビから墨汁みたいな黒 い汁がとろとろ出てくるの。黒い汁は出始めると止まらないの。眼玉の穴とか顎の隙間とかからもとろとろ出始めるの。
 そしたらだんだん目が悪くなってくるの。耳が聞こえなくなってくるの。なにか言おうとするとそれが言葉じゃなくて動物みたいな声でぞっとする わ。でも頭の中は信じらんないくらい色んなことを物凄い速さで次々と考えているの。速すぎて目が回る。頭の中で地球ゴマがくるくる回っているの。それが数 えきれないたくさんの真っ黒な地球ゴマなの。くるくるくるくる骸骨の中を地球ゴマが回りながらどんどん増えていく。ねえまだまだいくらでも増えるのよ?  だからうるさくて眠れないの。でもひとつひとつ回転を止めても間に合わないの。ひとつ止めている間に三つ新しいコマが回りはじめるからいつまでも追い付け なくて頭の中が銀河系みたいに拡がってきてるわ、ねえ見て見て足元から地平線までびっしりと地球ゴマに埋め尽くされてもう身動き取れないし眼玉の中でも 回ってる耳の中でも回ってる舌の上でも回ってる、くるくるくるくる回ってる止まったらどうしよう止まったらどうしよう止まったらどうしよう止ッタラドウシ ヨウ止ッタラドウシヨウ止ッタラドウシヨウトマッタラドウシヨウトマッタラドウシヨウトマッタラトマッタラトマッタラトマッタラとまったらとまったらと まったらとまったら

 止まらない。

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ホテル

 幽霊が出ると評判のホテルがある。某代議士が自殺したことで一時は話題になったホテルだが、出るのは代議士ではない。
 五歳くらいの男の子である。
 部屋に入って電気を点けると、奥の方でかさこそと物音がする。このとき気づいてフロントに連絡すれば、何も言わずに部屋を替えてくれる。
 豪胆なあなたが気にせず中へ踏み込むと、小さな人影が目の前を横切り、バスルームへと消えていくだろう。このときフロントに連絡すれば、部屋を替えてもらったうえ、ホテル謹製の洋菓子折まで手渡されるかもしれない。
 もっとも不幸なあなたは、意を決してバスルームのドアノブに手をかけてしまうはずだ。中にはもちろん、五歳くらいの男の子の姿がある。シャワー カーテンが赤く染まっているのも言うまでもない。不審なのは手首をざっくり切って浴槽に横たわる五歳児が、新聞やテレビでよく見たあの中年代議士の顔をし ていることなのだ。

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私は幽霊を見た

●厚木市 47才 団体職員
「うちの隣が墓地なんで、もう別に怖いとか気味悪いとか思いませんね。慣れてますから。でもこないだ朝早く墓参りしてる人がいたから、誰だろうと 思って二階の窓から見てると、去年死んだ近所の酒屋の主人なんです。私はびっくりして妻を呼んだんですが、そのときはもう姿がありませんでした。妻の言う には、亡くなった酒屋の兄弟や親戚が墓参りに来てたんじゃないかって。あんまり似てたから見間違えたんだろうと言います。どうなんでしょうね、言われてみ ればたしかに死んだ酒屋はあんなに痩せてなかったような気もするんですがね。私が見たのは、頬なんてこけちゃってまるで死人みたいでしたから」

●杉並区 28才 会社員
「大学時代、サークルの合宿で箱根に行きました。芦ノ湖で遊覧船に乗ったんですが、霧が深くて景色が退屈だったんで、合宿に来なかった奴の噂話を してたんです。やがてKという一年生の話になりました。彼は夏休み前から入院してたんですが、サークル内に親しい人間は誰もいなかったので、病状を知る者 がありません。当然のように重病説が囁かれていました。その時も誰かが『あいつは全身に原因不明のおできができて高熱が下がらないらしい』なんてことを言 い出したんです。私は何だか嫌気がさしたので、話題を変えようとしました。ところがみんな目の色を変えてKの病気について詮索しはじめていて、おできの原 因は何だろうとか、おできは紫色かもしれないとか、とにかく私の声に聞く耳を持たないんです。異様に盛り上がってる。ところが船を下りた途端みんなけろっ として違う話をしていました。合宿から帰ってきて、私はふとそのことを思い出したのです。ところが誰に聞いても、あのとき一体誰が(Kは原因不明のおでき で苦しんでる)などと言い出したのかわかりませんでした。たしかにそんな話をしたことだけは確実に覚えているのに、です。Kは休み明けに退院したらしいで すが、サークルにはそれきり顔を出しませんでした。だから入院した理由もすっかり聞けずじまいです」

●浦和市 31才 主婦
「子供の頃、暗くなった帰り道をひとりで歩いてたら、道路の真ん中に水の入ったコップが置いてありました。よく見ると中で金魚が泳いでいます。私 は金魚が車に轢かれないようにと思い、コップを道路ばたに移動しておきました。次の日、友だちのゆかりちゃんがその場所を通りかかったところ、ライトバン にはねられて重傷を負いました。弟と一緒に現場を見に行くと、警察官や野次馬がたくさん集まってましたが、道ばたにある金魚の入ったコップのことは誰も気 づかないみたいでした。私はそっとコップを持ち去って、金魚を近くの川に逃がしてあげました」

●日野市 40才 理容師
「まだ長男が生まれる以前、妻と二人で東北を回ったんですね。ちょうど台風が近づいて天気が荒れてたんですが、せっかく休みも取れたんだしと、大 雨の中を出発しました。途中、電車が徐行したせいで乗り継ぎがうまくいかなくなって、聞いたこともない駅で宿を探す羽目になったんです。駅員の紹介で古い 旅館に泊まったんですが、ほんとはだいぶ昔に営業をやめてたみたいで、通された部屋も、掃除の行き届いてない殺風景な六畳間でした。その晩、夜中に目が覚 めました。何か不思議な夢を見ていたような気がしたんですが、中味は思い出せないんです。しばらくするとまた眠っていました。ところがふたたび目が覚める と、やはり何か気になる夢を見ていた記憶があるんですが、内容が思い出せない。私は体を起こして、何となく辺りを見回していました。今まで気づかなかった んですが、床の間の続きの壁に小さな窓があります。私は直感的に、あの窓がさっき見ていた夢と関係あるような気がしたのです。私は布団を出ました。妻は寝 息をたてています。窓の向こうは真っ暗でよく見えません。錆び付いているのか、開くこともできませんでした。あきらめて布団に戻ると、隣で寝ていた妻が苦 しそうに声を漏らしたのです。あまりに眉をしかめているので、何度も妻の名を呼ぶうちに彼女は目を覚ましました。妻が言うには、あの小さな窓から人の顔が 覗いて、その唇が動いて自分の名前が呼ばれたのだと。夜が明けはじめるのを待って窓の外を確かめると、そこにはただ荒れた裏庭があるだけでした。あれ以来 私も妻も、夜中にうなされることがめっきり多くなりました。あの窓の外の景色の中に、何か見落としてきたものがあるような気がしてならないのです。もっと よく見ておけばよかったのにと後悔してます」

●武蔵野市 19才 専門学校生
「実家の近所に古い木造アパートがあったんで、みんな幽霊が出るって噂してました。たぶん空き部屋が多かったんだと思います。暗くなっても明かり のつかない部屋がほとんどでした。そのうちの一室にしのびこんだ男子がいて、押入に大量の古いハガキがしまってあったっていうんです。それが全部、喪中で 年賀状の欠礼を詫びるあのハガキだったって。しかも全部に宛名が書いてあって、ちゃんと消印もあるハガキなんですね。受取人の名前はどれも『工藤貞夫』 で、亡くなった人の名前は一枚一枚違ってたそうです。ハガキは何百枚もあって、とても一人が受け取るような量ではなかったし、そんなハガキばかりを溜め込 んで、押入にしまったまま引っ越してしまったのはなぜだろうって。みんな不思議がってました。そのとき盗んできた一枚を彼に見せてもらいましたが、『工藤 貞夫』の住所は北海道のどこかの、まるで聞いたこともない町でした」

●藤沢市 33才 無職
「近所のスーパーで、客が一人もいなくなる時間ていうのがあるんだな。午後の二時十分前後なんだけど。その時間に店にいると、きまって客が俺ひと りしかいなくなってるの。しばらくするとまたちらほら増え始めるんだけど、あれ何なんだろうねえ。だだっぴろい店内に呑気な音楽だけ流れてて、なんだか寂 しいんだよね。だから最近あまり行かないけど、まあ繁盛してるみたいよ」

●北区 53才 主婦
「隣の青田さん家がずっと留守だと思ってたら一家心中してたのよう。そんなの知らないから玄関先に回覧板置いてきたら、ちゃんとハンコついて次の 人に回ってたのよ。でもそのときもう青田さん家じゃ全員ロープで首くくってたはずなんだって警察の人が言うの。だからおかしいと思って沢さんに聞いたら、 あたしが回覧板持ってきたっていうわけ。青田さん留守だからとばすわって言って。そんなはずないって怒ったわよ、だって冗談じゃないわよちゃんとハンコ だってついてたしおかしいじゃない何であたしが持っていったのよう。それにあたし青田さんたちがみんなで鴨居にぶら下がってるの知らないで玄関に回覧板届 けたんだからいやねえ。ひどいわよねえ。なんで死んだりするのかしら。それにあんな小さい子供までいっしょにぶら下がんなくてもいいじゃない。死ぬほど切 羽詰まるとろくに知恵が回んないのかしら、なんだかそれも気の毒よねえ」

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ウサギ女の攻略

1
なんでそんなふうに呼ぶかというと、彼女だけいつも、ほら写真撮るとフラッシュで目が赤くなるでしょう、彼女だけいつもそうなんだ。きまって赤目だからい つのまにかみんな彼女のことをそう呼んでる。クツワダ君くらいだねちゃんと本名で呼んだのは。クツワダ君知らない? 去年の夏にインフルエンザで死んだん だけど。夏だよ、それも変だけど死ぬとき両親相手に長嶋茂雄のモノマネしたっていうからね。ちょっとそれはどうかと思うでしょ。

2
それで彼女のことだけど、「ウサギ」「ウサちゃん」なんて可愛くていい呼び名だってぼくなんか思うけど、どうも本人気に入らなかったみたい。はじめに使い 出したのはたぶんクロイソ君だろうな、それからみんなが続いた。それで定着しちゃったわけだ。え、クロイソ君を知らないの? 去年の秋に宝くじで10万円 当てて、その三日後に電車に飛び込んだクロイソ君だよ。びっくりしたよなあ。10万円どうしたのかな。ちゃんと誰か交換に行ったろうか。

3
彼女が来ると空気が変わるっていうかね。いろんなもの連れてくる感じなんだな。熱帯の強烈な匂いのする花とか、30センチくらいある蝶々とか。そういう世 界を丸ごと連れてきといて、本人は知らん顔なんだ。蝶々が勝手に飛び回ってみんな目を回しちゃう。だからウメザワ君なんか彼女が来ると指の先まで真っ赤に なって口も利けないんだ。あの軽薄なウメザワ君だよ、えーやっぱり知らない? そうか知らないのか。まあ彼もあれだしね、去年の冬だったけど。急に来なく なったと思ったら屋根から落ちて死んだなんて。そんなこともあるもんだね。雨漏りなんて大工に頼めばよかったのに。

4
ぼくの知る限り、彼女はいつだって誰かになびいてるんだ。ほんとだよ、じつを言えば何度か相談されたことだってある。内緒だけどね。いちばん脈があったの はノノミヤ君だろうな。ノノミヤ君ならさすがに知ってるでしょう? ……まいったな、知らないの。嘘じゃないよね? そうかそうか。もうそんな人だってい るんだな。彼女、ノノミヤ君には本気で転びそうだったんだけど、彼だって気づいてたんじゃないか。あんなわかりやすい目でうっとり見られたらさ。それなの に今年の春に死体で発見されて……ひどいよね、場末のごみ箱に裸でぶちこまれてたなんてさ。犯人は捕まってないっていうし。

5
彼女の落胆といったらなかったね。でも立ち直りの早さも美点のうちだよ。三日もしたら知らん顔で笑ってる。彼女はけしてぼくらの期待を裏切らないし、それ でいて必ず予想を裏切る人なんだ。そうそう、予想っていえばシモクラ君のこともやっぱり……知らないね。そのシモクラ君がさ、十日前から行方不明なんだ よ。自宅は家具も何もかも全部消えてて、畳の上に少女隊の写真集が一冊ぽつんと置いてあった。この目で確かめたから間違いない。ほんとにあれは少女隊だっ た。それでぼくらの予想としては、彼もこの世の人間じゃないだろうってさ。冷たいようだけど、そんな気がするんだよなあ。

6
ところでさ、君もやっぱり彼女が目当てなの? いや遠慮しなくていいよ。ぼくなんか最初から降りちゃってる方だから。そんな歳でもないし。ふうん、やっぱ りね。そんな気はしてたんだ。彼女、今夜機嫌よかったよね。でもあんなときがヤバイんだよなあ。何がってこともないけど、何となく。それに正直いうと、や めといたほうがいいと思うんだけど。彼女のことね。君はよく知らないと思うけどさ。だってさあ、彼女、写真にうつるときいつだって赤目なんだぜ。それにつ いて君はどう思う? いや陰口じゃないんだけど、なんとなくさ、なんとなくだけど、そういうのってちょっと変だと思わないか?

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ニセ宇宙(第2回歌葉新人賞候補作/2003年)

世界恐怖症

出口はひとつしかなく銀色のドアノブに指紋かさねゆく 死は

パイ投げのパイが視界をよこぎって修羅場にかわる夏の教室

体温計挿んだまま眠っている キノコの餌になる夢見ている

満ちていく海にたゆたうあの髪はあたしの髪よそう告げてきて

あの月の欠けた部分でこすられた野原に薄い街がひろがる

月食のはじまる時刻おしえてもおしえても聞き返す寝言は

<時計を投げ捨てよ>灰から灰色の娘がめざめ口をきく日に

夏の終り小雨に湿る歯ブラシを託す裸体画モデルのゆびに

とりどりの瞳の色に咲き誇るポピー畑がみていた洪水

切り裂き魔きりさきマコが出没する星座通りの乙女座の髪(付近)

切り裂き魔きりさきマコの犯行と断定 ずたずただったぼくらも

雨を待つ気分で騒ぐぼくたちが本当はだれもいないということ

ぼくたちは陽気に眠る かぞえてもかぞえても数があわない集団

迷信をすべて信じるママの目にたくさんお墓が映っていた日

ペンキ缶浴びた兵士が青空を撃ちつづけてる 汐風の中


贋地球時代

「ダッチワイフに生まれ変わるの」真っ黒なリボンで結ばれていた朝顔

パーマン何号が猿だっけ? このゆびは何指だっけ おしえて先輩

それくらいいつも金魚が目の前をぴちぴちはねる死ぬ前のこと

青ざめていくあいだじゅう手拍子がキャベツ畑のほうから響く

砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を

よく冷えたトマトジュースで洗ってと書かれたメモが帽子の中に

三回転コースターから未配達郵便物がとび散って 蝕

晴れわたる空に星座の滲みだす音楽、脳によくない音楽

だれの手か分からぬものが土塀よりつき出している 鳩を掴んで

意志のない目をして笑うスナップにお花畑の一員として

赤い目をしてない写真一枚も いちまいもなく ぼくもウサギも

子守唄の二番の歌詞をでたらめに歌うとき夢の出口が変わる

線路が消えたところだけ白い草原を怪我したように引きずって風

気がつけば口に栞をはさまれて星を見ている八月の海

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インフェル野(第3回歌葉新人賞候補作/2004年)

>>

帰る気のしないホテルに少しずつ窓がふえていく音がする

青空がくらくて途にまよいそう 街 沢山の手のひらが飛ぶ

階段が盗まれた家ぬすまれたかいだんがあるいえ草原

にせものの貴方が(きれい)ずぶ濡れで足りないねじはバイクから摘む

はちみつの濁るところを双眼鏡さかさまに見る震えながら

おはようおはよう、さいごのドアをたたくとき 背後のドアは叩かれている

ゆびぶえの鳴らないひとが玄関のベルで合図を送る火星に

台風の目をみたあとで愚かさがはじまる 壜のなかの靴音

屋上と屋上がつながりあって 道 になるほどのふるい、再会

ぼくが足を滑らせる穴ことごとく火星に通じているのも妙だ

三毛猫をさかさに抱いて睡たがる女の子はみんなきちがい

逃れないあなたになったおめでとう朝までつづく廊下おめでとう

オムレツに包んだものの詳細を書いた手紙が届く食後に

夕焼けのたけやぶやけた焼跡のあんなところに四階がある


>>

 ブラボー!
 過去は遠ざかる一方だ

墓石を小窓のように磨く手が墓のうちなる手とさぐり合う

くちばしにイニシャルきざみ朝焼けの電波塔から逃がす海猫

ぬくもりを残しそうな手もつぼくに鏡のぼくが目を合わせない

はねられた生き物たちが道ばたに埋められていく 墓地がひろがる

滅んでもいい動物に丸つけて投函すれば地震 今夜も

二人いる黒眼鏡のうちどちらかが私であろう線路を歩く

あいさつが花粉をとばす すれちがう人のシャツから伸びる巻きひげ

蜃気楼だったといえば嘘になる半ば草原化した文化祭

そんなのはクー・デターにはかぞえない表紙に草のはえた電話帳

指に蛾をとまらせておく気のふれたガール・フレンドに似合う紫

抱いていい動物たちのリストより外されたとき野道は静か

水族館だった建物 あらそって二階をめざすけむりのように

ともだちの友達だった頃駅で回送電車越しにおじぎする

日なたから帰ってこない友達を思い出せないまま冬が来て

陽をあびた長い廊下を足音が近づいてくるこれからずっと


>>

 どこかへ行こうというきみはどこに行くつもりがあるでもなかった
 あしたからいいことが始まると天気予報みたいにいいっぱなしにして
 青天井でいい気に月までコーラの泡が吹きあがっていく!
 いい風がくる!
 そんなこと一瞬でも疑えば水の泡
 忘れっぽいぼくらの思い出の中

生き地獄めぐりは続く花束をバスの窓から投げるぼくらも

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水の泡たち(第4回歌葉新人賞候補作/2005年)

指環から抜けないゆびで二階から二階へ鳩をとばしあう海

すじをひく星が夜明けのあちこちをコンビナートの寝息のように

窓で目があう人もいるきみはただ手ぶらで海が見たかっただけ

とびちった花びらも濡れた下生えも気にせず進め けど首がない

雨にぬれた水着を吊るす ぼくらには大西洋へ注がない河

まじわった線路は海に国道は林にきえてあの街は未来

どこまでが駅前なのか徒歩でゆくふたりでたぶん住まない土地を

レンズ雲うかべた午后をうたたねで過ごすバイクを盗まれながら

自転車をひきずる森でかなたより今うでの毛のそよぐ爆発

森の樹にぶつけた車乗り捨ててぼくらはむしろ賑やかになる

ないものが陽を浴びている公園の跡地つぼみをくわえてきた犬

夏雲にむせぶスキャット舌だして溶けない飴を見せたがる日の

手裏剣に似た生き物が宇宙から降ってきたわけではなく夏よ

見ないようにしていたものを見てしまう指のすきまに睫毛がふれて

「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている

風邪をひきやすい先生によろしく(と叫べば火のようにかるいメンス)

椅子に置く花束でしたともだちが生まれ変わると向日葵になる

さようならノートの白い部分きみが覗き込むときあおく翳った

道なりにゆく埋立地うめたての海の気配をこわがりながら

ひとりでは歩けない影ひきずって階段くだりはじめる雨の

飼い犬におしえた芸をきみもする いくつものいくつもの墓石

雨雲をうつしつづける手鏡はきみが受けとるまで濡れていく

夏の井戸(それから彼と彼女にはしあわせな日はあまりなかった)

砂壁のくずれる日々をながめては ぼくらはいつか穴でつながる

七時から先の夜には何もない シャッターに描き続けるドアを

あの馬鹿が旅に出るならぼくたちは旅には出ない 出ないなら出る

時計屋に泥棒がいる明け方の海岸道をゆれていくバス

蛾をつつむ素手で いつもの手紙にはいつも なんだか挿んでいたね

(運転を見合わせています)散らかったドレスの中に人がいるのだ

はしらない?ウルトラマンの3分が終りかけてる明滅のな

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足りないのは勇気だけじゃない

 きみはどことなく売女に似てる。うしろ姿ならジャングル・ジムにも見えるけど。きみのむこうに覗いてしまうこの国の現実が、埃っぽいクラクション まみれの道と道をかさねた×(ばってん)まみれでいる訳を、きみの口からぼくが話そう。ごはん食べながらお喋りしてついこぼしてしまうミートソースみたい に。今度はぼくの番だよ。

「すべての信号機に動脈の赤と、静脈の青と、おしっこの黄色を取り揃えております。(さらには)踏みし めながら彼岸へ至る鯨幕も、みどりちゃん(歩行者用)の瞬きに照らされて。世界の中心が移動しました!あっちへ!嘘ですこっちです!ぼくたちは!結局!墓 場につめたい布団を敷いてゆうべの夢へ!逃げ帰る途中の!やせっぽちで!頭のたりない!人類!なのです!人類が!いっしゅんで通り抜けた風穴はこちら」

  きみのだらしないアルバイト。つめの色が何色だったかで思い出す、仕事中にまぼろしの捜査官たちが繰り広げるいたちごっこの、そのいくつかの種類。悲しい のや可笑しいの。ほんと馬鹿みたいに、きみの下着や奥歯をマッチで炙れば暗号でも浮かぶみたいに、信じてる男性たちのプラスチックの喉仏たち。それをひと つ残らず押し込むとまぼろしは止まる。さあ現実だ。きみはずっと同じ姿勢で、部屋の壁に貼り出されたセリフを一字一句忘れないくせに、わざと何度も云い間 違えてる。外国人みたいに。外はいつもその頃にはあかるくなっている。きみは駄目なアルバイトでいたかった。駄目なアルバイトの時給は百円から一円たりと も値上がりしない。きみは百円のままでいたい。きみは百円あればぴったり一時間動くから。コイン投入口に巻きつけた包帯を、ほどくのはぼくの仕事でそれだ けがぼくの仕事。男子一生の仕事。そうきみがさっき決めたのだ。

 そして現実には痛くてたまらない腹をさぐりあうのだ。 

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自由行動

 これなの、と彼女は彼にそれを差し出した。何これ? と彼。これはね、こうして着るの。たちまち彼女は裸になった。それが二つあるうちの、一つに 彼女自身が潜り込む。ほらね、わかるでしょ。ああ、なるほど着ぐるみかい。そう、着ぐるみ。うなずきながら彼女は、残りの、大きいほうを手渡した。ぼくも 着るのかい? と困惑顔の彼。当たり前でしょう、という目で見返す彼女。まばたきが瞬間、ちかちかと会話する。

 しかたなしに彼 はつきあった。腕をのばす穴や、首を突っ込むべき穴がなかなか見あたらず、着ぐるみの中でしばらく七転八倒。やっとのこと収まるべき位置に収まると、狭い 覗き穴から彼女が見えた。彼女は牙のある顎の隙間で、器用に煙草をふかしてる。着れた? と彼女。どうにかね。と彼。満足気にほほえみながら、彼女は煙草 を壁に押しつけて消した。これはね、と自身をその太い着ぐるみの指で示す。セックスのできる着ぐるみなの。

 ぽかん、という泡の はじけた顔で彼は恋人を見つめた。川の向こうの博士の発明よ、と彼女は胸をそらせた。ご覧なさい、と動物の胸や腰の辺りにある、特別なしかけを次々に披露 する。ほらこんなのも。こっちはどう? しかけのいくつかは、恋人も思わず目を逸らすほど、大胆で扇情的だった。おまけにひとつ残らず、合理的で、実用的 だった。すごいな、ぼくらのしてること、何だってできるんじゃない? そうよ。何でもできるの。あなたも試して。

 見よう見まね で彼も、怖ろしいけもの(額にみごとなツノが生えていたのだ)の体をよじらせてみた。すると思いがけないところがポン、と開いたので彼は赤面する。慌てて しゃがみ込み、その部分を元に戻しながら彼は、もう一匹のけものを眩しげに見上げた。最初はよくあることだわ。でもすぐに慣れてうまくいくから、と彼女は 慰めた。あれ、出かけるつもり? 決まってるじゃない、と彼女。わたしたちこんないいものの中にいるのよ? まさかこの格好で? もちろんでしょ。心配な ら、博士がくれた説明書があるわ。私は読んでないけど。

 二人は玄関にむかった。履ける靴はないね、と彼が笑う。当然ないわよ、 動物なんだから! あのね、今から私たち動物なのよ。素直にうなずく彼に、彼女は付け足す。いいこと? ここからは自由行動だから。好きなようにしてね。 ただし私のあとは、ついてこないで。けものの口の奥にある、人間の男の口から、なんとも心細い叫びが漏れた。もちろん彼女は聞いちゃいない。牙の格子の奥 で瞳が、きらきらと輝いている。私はあっち行くんだから、あっち以外にしてね。さようなら。幸運を祈るわ!

 玄関のドアを蹴飛ばせば、そこはまだ真夜中の町。えものたちのカラフルな匂いが、ビル風にまじって吹き荒れる時間なのだ。

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天使の誘惑

 部屋の真ん中で死んでいる昆虫をぼくは生活のへそと名づけた。動かさないように気をつけて翌朝をむかえると、壁の借金メーターが500をさしている。昨日は300をちょっと越えるくらいだったのに。

 首をくくるか就職するかでぼくは揺れ動いた。犬と結婚した知人の女性の話を思い出して何とか心を和ませようとしたが、女性が結婚したのも借金が理由だったことを思い出すとかえって気分が暗くなる。彼女はべつに犬など好きではなかったのだ。

  資産家の犬はぼくの何万倍も贅沢な暮らしを彼女に提供しただろう。だが所詮犬なので家は犬小屋だし食事はドッグ・フードだ。朝晩の散歩は妻である女性の義 務である。投票日には選挙権のない夫を家に置いて彼女だけが投票に行く。夫は屈辱を感じるだろうか? 犬だから何も感じないのか? ぼくが今すべきことは あの犬に自分の選挙権を売りにいくことだ。

 便器の蓋を開けるとそこにエスカレーターが稼動している。ぼくは地下鉄の駅にたどり 着くまで電車賃がないことを忘れていた。改札の前まで行って手ぶらで引き返す頃には、ぼくは全身糞尿まみれだった。首を吊るには掃除機コードで充分だろう か。わが家には鴨居というものがないが、低い天井からはいつでも天使が両手をさしのべてぼくが助けを求めるのを待ち構えている気がする。

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「あの雲をよく見て」と妹が言った。「パパのしかめっ面に似てると思わない?」

 窓に夕陽が当たり、目の中にオレンジ色の光が吸い込まれてくる。

「ハンバーガーはいつからこんな値段なんだい?」ぼくは訊ねた。「釣銭を見てびっくりしたよ」

「さあね。ほら、顔がだんだんくずれてきちゃう。ねえちゃんと見てよ」

 それから五分後。妹は不機嫌そうに指先でストローをいじくっていた。

「本当にパパそっくりだったのに。あんなの二度とないことなのに」

 ぼくはハンバーガーから抜き取ったピクルスを紙ナプキンにならべた。「好きじゃないんだよな、これ」

「パパが甘やかしたのよ」と妹が言った。「ぶん殴ってでも、好き嫌いを無くさせるべきだったわ。そのほうが実際は子供のためなんだから」

 ふん、ふん、とぼくはうなずいた。うなずきながらピクルス抜きハンバーガーを齧る。

 隣りのテーブルで、小さな女の子が声に出して絵本を読んでいた。

 内容は子供が読むには全然ふさわしくないもので、耳を覆いたくなるような単語が何度も耳に届く。

 夕陽が定休日のショッピングセンターの屋根に身を隠した。

「あれっ」

 ぼくは立ち上がって店内を見回した。

「ここはマクドナルドじゃないか。いつからマクドナルドにいるんだい?」

 まわりの客がけわしい顔でこちらを見ていた。カウンターから店員が身を乗り出している。

 隣りのテーブルの女の子が、絵本を読むのを中断して不思議そうにぼくの顔を見上げた。

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不適切な映像

 腋毛をはやしていて美大生で裸のモデルもやります。みたいな顔で待ち合わせの場所に立っていた女に早口で挨拶すると私は刷り立ての名刺を一枚渡した。

「すっごい文字ですねこれは。鏡文字にしか見えないです」

 女はさっき私が電車の中で思いついたばかりの名前が印字された名刺を、財布の中にしまうまでに何度も顔を近づけて読み返していた。

「想像医療ネゴシエーターってなんですか」

  視力が悪いらしく女は何かを見るとき眉をしかめ、対象に近づけた目を細めている。日の暮れたばかりの空が稲光で音もなく発光するのがビルとビルのあいだの 空間に見える。女が肩を出した服から真っ白い肌に目立つほくろとうぶ毛が、路地を照らす店の明かりではっきり見えたり影になったりしている。私は私に与え られた肩書きを知らなかった。

「このあたりよく来るんですよ。そんな空き家ありましたっけ。じゃなくて廃屋?目立たないところなのかな」

 そう。ぼくが誰かを連れて行くところはきまっていつも人目につかないところだから。

「もしかして地下なんですか。地下室。きっとそうですね?」

 そのとおり。ぼくはきっと案内する彼女を階段を最後までくだりきった突き当たりの不適切なドアの裏まで。

 フィルムの入ってないカメラで無防備な後頭部を思い切り殴りつけるとき、女の子は誰でもうさぎの鳴くような声をしぼり出すことを君はもうじき知ることができるだろう。

 上映会場への階段は今大工がつくっている。手ごろな建物の壁にまず穴をあけて。

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当選

 くちびるが「ふ」のかたちになった女の子が流しの下からあらわれてぼくに銃をつきつけた。

「あなたが最後に踏んづけたアリが当たりくじだったのよ」女の子はそう云って銃をもたないほうの手で髪をかき上げた。「だから連行するわね。拒否する権利はないと思って」

 流しの下には路面電車を思わせるデザインの乗物がとまっていた。ぼくは銃口にうながされるまま席につき、ドアが閉じてしまうのを心細く眺めた。

  窓の景色はめまぐるしく変った。ぼくは驚きのあまり声も出ない。時計の文字盤によく似た町並みから、辞書の索引のような田園地帯へ。雨雲から垂れ下がった 塔の足もとに寄せたところで乗物は動きを止めた。「さっさと降りてちょうだい。もたもたしてるとドタマにぶち込むわよ」

 地面に 降り立ってふりかえるとドアが閉まり、中で女の子が手を振っている。銃口からカラフルな万国旗が飛び出していた。「だ・い・せ・い・こ・う」女の子のくち びるがそう動いたように見えた。そびえたつ塔からはこまぎれになった音楽がきらきらとふりそそいでいる。乗物が塔のまわりを大きくめぐりながらやがて雨雲 に消えた。

「腹黒い女の妄想へようこそ」

 ヴァイオリンで弾いたような声が近くでした。ぼくは周囲の丈 高い雑草や、ちらばっている紙くずをどかしてみたけれど誰もいない。紙くずにはアラビア数字と拇印が規則正しく、漢字とひらがなのように並んでいる。声は 今度は頭の中から聞こえた。「きみはあの女に好きなように想像されているんだ。これからもっとひどい目に合うところをね」

 ぼくがいきなり自分の髪の毛に手を突っ込むと、ぎゃっという声がして真っ黒な猫が頭を蹴って飛び出してくる。

  猫は地面に降り立って、ボーリングのピンの姿勢でこちらを見上げる。近くにあった石ころを振り上げてみせるとあわてて茂みの中に飛び込んでしまった。まだ 何か言いたげに首を覗かせるので、石を投げつけたらぐしゃり、と音がして猫は、猫の首と胴と手足のかたちの紙くずに分かれて地面に散らかった。ぼくがひと つを手にとってひろげたところ「はずれ」と書いてあり、拾い上げた紙くずは一枚残らずみな「はずれ」だった。

 塔の入口のドアがまるでドアではなく、ドア以外のすべてのものが引きずられているようなひどい軋みをあげて開きかけている。ここで云う「すべてのもの」にはもちろんぼく自身も含まれている。思わずにぎりしめた雑草がごっそり抜けて手のひらに残る。

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買い物ブギ

 パパにもママにも知られずサイボーグ手術は無事完了。全身が映せる鏡に風呂上りの私がプラスチックのボディを公開してる。頑丈でたとえばタンク ローリーに撥ねられた程度じゃ傷ひとつつかない、この愛しいボディ。もちろん今日一くんにだって手術のことは教えてない。反対されるに決まってたからだ。 私は周到に準備してカナダへのホームステイを装って入院に成功した。ネットで知り合ったカナダ人に協力を依頼、両親や今日一くんとの手紙のやりとりも見破 られず偽装してのけた。ちゃんとカナダを経由して手紙を出したのだからエライ。現実の私は新大久保のビルの地下にある違法病院に一ヶ月間寝そべってた。枕 元のテレビでヤコペッティの同じビデオを何百回も繰り返し見ながら。

 私みたいなサイボーグになりたい子がわんさかそこを訪れ、 博士とおもにお金の相談をして肩を落として帰っていく。風俗とかで貯めこんだ通帳を博士に見せてはあっけなく首を横に振られてた。たまたま近所のどぶで三 億円拾って警察に届けなかった私だから、こんなレアな手術が受けられたのかも。考えたらすごくラッキーだったのかもね。私が正直者じゃなくってほんとよ かった! でもこれで一生肌のどこを裂いても血が一滴も流れない体になったから、私は大切な趣味をひとつ永久に失ったことになる。趣味=リストカットじゃないよ。献血。かわりに私が得たものは壊してしまう心配のいらない人形。壊せるものなら壊して御覧なさいよ、の誇り高い自動人形。どんなもんよ?

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