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2007年12月7日

飾り窓の女

 くちぶえを吹かれてふりかえると、そこは砂時計のガラスの表面に映った街路で、くちぶえの主は警官だった。
「名前で呼んでよ」
 女は馬鹿にしたような真面目くさった口調で云った。
「ちょっと質問があるんだがね。お嬢さん」
 警官は表情ひとつ変えていない。
「最近、こんな男を知らないかね。警察官の制服を着て、街娼に声をかけてくる。特徴は巧みなほのめかしと脅迫、それに猫撫で声だ。連れていかれた女は、生きてふたたび街には帰ってこない」
「知らないわねそんな話」
 女は砂時計に指をのばした。
「わたし忙しいのよ」
 つまみあげた砂時計をひっくり返すと、ガードレールの前に立てかけられた花束にならべて足もとに置いた。砂のこぼれる音が夜の喧騒にまぎれて耳まで届かない。
 警官の姿はどこにもなかった。
 路の反対側のショーウインドーにうつる自分に手を振り、手を振り返されたことで女は満足したように歩き出す。
 ウインドーの女だけが残った。砂時計の砂がこぼれきってしまうまでのあいだ、少し困ったような顔で、さらさらとなまぬるい夜風に吹かれていた。

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栄光の世界

 あいつの醜さにはだれもが一目置いている。人類に可能な醜さの限界に挑戦する勇敢なあいつに、誰もが心から拍手を惜しまない。私も可能なかぎりの援助をたった今申し出たばかりだ。
「大 した額ではないが、ボーナスは全額君に寄付することにした。どうかその最悪の醜さに拍車をかけるために使ってほしい。もちろん今後はあらゆる積み立てや月 賦、保険料の支払いを停止して君への寄付に回す。借金だって厭わないし、街頭で募金活動も展開するつもりだ。きっと趣旨に賛同する多くの市民が募金箱に殺 到するだろう」
 あまりに醜いあいつを直視することができず、私は目をつぶったままそう断言した。
 醜さの世界記録を更新中。オリンピックに「不細工」という競技がないことが世界一惜しまれる男。あいつの醜さは一種の超能力だ。あの未知のエネルギーを何とか平和利用できないだろうか?

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花嫁は奈落の底に

 巨大なピンが屋根の上に載っているからといってボウリング場ではなかった。かつてそうだったとはいえ、今は違う。今はここは若者たちがスマートなフォームで得点を競う健全な娯楽の空間ではない。ピンの倒れる軽快な響きが建物のあちこちではじけていたりはしない。
  収容所である。降って湧いたような収容所だ。老若男女問わずといいたいところだが、ざっと見たところ女ばかりだ。所長がレズビアンだからそうなのか、食糧 不足の折、男はみんな食われちまったのか定かではない。たしかにここには餌が足りない。お嬢さん方は頬骨が目立って美貌が台無しだ。彼女がしなびたドライ フルーツと化す前に、ぼくらは花嫁奪還のための擬似ボウリング大会を主催する。もちろんあらゆるレーンは都市の比喩であり、ピンは衛兵をにわかに象徴す る。
 だが花嫁は、正確には花嫁候補は、ぼくらの突入を待ちわびる囚われの白い蝶ではなく、女所長と鋼鉄のディルドーで結ばれた 禁断のひめゆり親衛隊かもしれない。なんかドキドキしてきたぞ!っとぼくらのうち脳に白蟻の巣があいた連中が騒ぎ出す。落ち着け。若者の娯楽の王道はいつ もボウリングだ。たとえすべてのボウリング場に火の手が上がろうと、あらゆるピンが首を刎ねたペンギンに差し替えられようと、ストライクが出た瞬間の爽快 感に敵うものはどこにもない。
 花婿衣装を脱ぎ捨てた男性諸君、今すぐ近くのボウリング場へと駆けつけなさい。
 どんな美貌も醜形も頭蓋骨上、たった数mmのできごとに過ぎないのだから。

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真夜中に一文無しは

 ノックの音で目ざめた。私の部屋は横たわると頭と手足が壁につかえる狭さである上に、玄関のドアがたったひとつの部屋にじかについているのでブザーがない。ノックの音だけで十分目が覚めてしまうのだ。
「毎度どうも。集金屋です」
 声を出すとき首が伸び縮みするので人間じゃないことが分かる男(のかたちをしたもの)が言った。
「先月分の時計代をいただきに来ました」
 先月もたしかに遅れも進みもせず時計は動き続けたし、ぼくは一日に何度も文字盤を見て時間を確かめたのだから時計代を払う義務があるのだろう。
 けれど残念なことにうちには彼に渡せる金がまったくない。その旨告げるとぼくは集金屋に「とにかく部屋の時計は全部持っていってくれ。金のかわりにというわけではないが」
 すると彼は困惑した表情をみせた。
「この場合、集金の対象になるのは先月の時計なのでして…」
 集金屋はぼくの手渡した目覚ましをもてあますように何度も両手で持ち直した。
「先月も同じ時計だったよ」とぼくは言った。
「いえ」集金屋は首を振る。「今はもう今月ですから。今月の時計ですね」
 いろいろと難しい話なんだな、とぼくは思いながら黙ってしまった。とにかくこの紳士的な集金屋のかたちをした人間以外のものは、本当はこんなふうにぼくを怒鳴りつけたいのだろう。「銭が払えないなら先月おまえが時計から読み取った時間という時間をすべて返せ!」
 もちろん返せやしないさ!
 ぼくは心の中で叫ぶと集金屋のくるくる回る小さな観覧車みたいな両耳に唾を吐きかけたい気持ちでこう静かに呟いた。
「明日また来てくれないかな。まだ割れてない皿やカップがあるから売りにいけば、少しはこれがつくれるかもしれない」
 ひとさし指と親指でちいさな円をつくった。

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蝋製喜怒哀楽

 快速の止まらない駅の伝言板で人間宣言を済ませてきた元・蝋人形のありさがはじめて目撃した人身事故の現場は、こうした事故のうちでもっとも酸鼻な様相を呈しており具体的にいうと裂けたシャツの切れ目から血液とともに内臓が線路にはみだしていた。

 たまたまホームには人がほとんどおらず、駅員があわただしく「救助」活動に奔走する隙にありさは線路におりてその内臓の散らばったひときれをポケットに隠した。名実ともに完全な人間になるためにそれは必要なものだと思えたからだった。

  大事なものを手に入れたうれしさでありさのいつも生白い頬は紅潮しているようだった。電車を止めるほどの絶望をかかえていたはずの人のひときれは、手のう えで生温かい静かな生き物のようにじっとしている。この部品をあるべき場所へと戻してやる方法がほかに思いつかず、ありさは薄い唇をひらいて臓器のかけら を含むとコップ一杯の水とともに流し込んだ。どうかこれで万事うまくいきますように! ありさはそう声に出さないで祈る、神様は信じてないから心に一万本 のろうそくの炎を思い浮かべて。

 蝋人形には人間の外見だけがあり内容は何もない。ありさが飲み込んだつもりだったものは浅い口 の奥で行き止まりにつきあたり、水といっしょに顎をつたって床に垂れ落ちてしまう。人の言葉を理解する蝋人形は人間まであと数歩に迫っているが、その数歩 が蝋人形の歩みにとって無限の年月を意味するのはいうまでもない。ありさの人間宣言なる文字もまた人間は誰ひとり読めない蝋人形特有の記号で書かれていたのだから。

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月は太陽の幽霊

 掘り進むのは井戸でなくらせん階段なので、私たちの関心はやはり消えることのほうにある。森がそこで内側に尽きているような、くり貫いたような空 き地で。それぞれの方角から、それぞれの獣道をつかい迷い込んできたぼくと、彼女と、君と、あの子を、ただひとつの人称で呼ぶなら私たちだが、ふたつに分 けるとすればぼくと彼女らだった。

 ぼくの一歩一歩がすなわち階段となり、ネジ溝を刻むあいだ彼女らは下ばえにだらしなく寝そべるだけの怠け者をつとめる、そして夜。今度は彼女らが底へと降りていく番だ。

  月が真上にさしかかる時刻が、この地方ではひと晩に幾度もおとずれることを彼女らは知るだろう。中古車のルームミラーでほほえむ、此処にいないはずの青白 い乗客がこの場合月面を輝かせる昨日の太陽なのだ。彼女らは夜のあいだじゅう、夜の来ていない場所をさがすために「穴掘り人足の死んだような居眠りの歌」 を999番までそらで歌い続ける。ただし鼻歌で、ひどい鼻づまり声のままで。

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心臓団の三人

ぼくらはたった三人の団体だった。ぼくらは「心臓団」を名乗った。
団旗には真っ赤な心臓がひとつ描かれた。モデルになったのはK子の心臓だ。
「かわいく書いてよね。冬眠中のカエルみたいに」
注文をつけながらK子はシャツの裾をまくり上げる。

血だまりの中からブラスバンドの演奏が低く訪れて、そして遠ざかった。

静まりかえった世界にK子の心臓がひるがえる。
ぼくらは彼女を悼む歌を歌う。そして涙を拭う。ぼくらは真新しい団旗を掲げる。
旗は夕陽を浴びていっそう赤く輝いた。K子の色に。

ぼくらはたった二人の団体になったけれど、彼女の魂はぼくらと共にある。
世界の終りにスイッチを入れるあの懐かしいボタン。
あの世から二人を嫉妬し続けるうらみがましい視線。
すべてK子の魂のかたちだ。
あるいは冬眠中のカエル。彼女自身そう望んでいたように。

心臓団は永久に欠けた三角形なのだから。

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ハンバーグ・ハンバーグ

 警官は指がほころぶほど強く握り返した右手で俺の組織に侵入し、裏返りながらすっかり溶け込んでしまうと制服と制帽が太陽の照りつけるコンクリートに転がった。

「こいつを便所に捨ててきてくれ。中身は見るなよ」

  そう鳩の言葉で鳩に命令してから警官は俺の意識のあった場所に納まる。鳩に渡した長期記憶に女の名前が混じっており、ちらっと目に入ると警官のペニスが臍 の右側辺りで激しく反応するのでどうやら下半身が充分同調しないまま奴は俺になったらしい。警官の俺は母親の名前で勃起する変態でお袋の形見のネグリジェ を着て眠るたび、自分そっくりな子供に性的ないたずらする夢をひと晩に三十回以上ばらばらに見続けたが、三十人の子供は少しずつ成長していって三十番目に はいつも現在の姿と寸分違わなかった。相手の名は警官の名前を鏡で映したように裏返しだった。

「お袋の亡霊に効くおまじないを発明してくれないかね?そこの美しいとは言えないお嬢さん方に質問だが」

  俺は警官の口調で陸橋の下をくぐっていく通勤電車の乗客に話しかけていた。乗客の返事は石版に彫られた文字の形で数万年前の地層から相次いで発掘され、ス ポーツ新聞の一面に印刷されて売店に届くが俺はあいにく古代文字があまり得意ではない。そこで外国製ポルノに古代文字でスーパーをつけた映像が稲光のよう に何度もまぶたにひらめき、しだいに学習していく俺が売店にまっすぐ続く道を誰ともすれ違わずに進むあいだ母親のひびわれた踵が二十五年前から俺の頬をい きなり踏みつけてきている。

 通勤電車のパンタグラフの 屈伸ぶりからママの得意な体位を連想した警官が、俺のよだれを大量に路面にこぼしながら売店に近づく。お袋はパーマ液の匂いをまっくらな寝室にたたえて息 子のパジャマに火をつけながら脱がせたり、逆さづりにした彼を蛇口に見立てて睾丸を左右にひねるとそれぞれ別なものが出る、という芸当を物心つく前から叩 き込んだおかげで警官になる前はその芸で食っていたが、当局からの手入れで最年少の彼だけは個室に連れ込まれ、人前で下半身を露出するのは恥ずかしいとい う思想を植え付けられた上で警官の制服を着せられた。着せ替え人形のように面白がってさまざまなデザインが試された後現在の制服に落ち着いたが、それがた またま日本の警視庁のものだったという。

 挽き肉でできたような不自然な肉体で俺は警官の意識を売店の前まで運びきった。

 財布の生温かい裂け目から液状化した紙幣を掻きだすといくつかの硬貨がコマのようにくるくる回っているのが俺に見つかる。

  人間のかたちをとらないタイプの人間が雑踏を構成する町へ取って返し、少年時代の砂場から猫の骨が掘り返される場面を巻き戻しながらお袋の白髪が束になっ て積み上げられていった倉庫がいっぱいになり、次の倉庫を借りるまで警官の口の中で代用するための緊急の相談で余白のなくなった手帳のびっしりの文字の上 に今度はお袋が、白いペンでさらさらと意見を書き込んでいった。「おまえはわたしの宇宙みたいにだだっ広い子宮から出られたと思っているのが最初の間違い なんだよ」と。

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夜警

 日本の跡地いっぱいに迷路が建造された。もとからある建物はそのまま維持されたが、隣家の玄関先に立つのさえ最短距離で(つまり迷う時間を考慮せ ず)一週間以上かかる場合もある。雲を突いてそびえる壁一枚へだてて、すぐそこに暮らすはずの人はもはや隣人ではないのだ。距離と時間についてまったくべ つの考え方が要求された。

 私は夜警として迷路のある一点から歩き始める。壁に挟まれて前後にひろがる空間が垣根に突き当たれば よじのぼり、民家で阻まれていれば合鍵でドアをあけて裏の窓から出た。私は勤務時間中ひたすら歩き続け、終るとその場所で次の勤務時間が来るのを待った。 下手に動くと元の位置に戻れなくなる心配があるからだ。

 私はゆうべの担当者がひと晩かけて歩いた道を今夜ゆく。私がゆうべ歩い た道は今夜はべつな担当者が歩くだろう。一定の間隔を置いてわれわれは夜警の旅を続ける。それは建前あるいは理想であり、事実は、私のあとに従うはずの者 がどこかで堂々巡りに捕まっているかもしれない。前方を行くはずの者がそれと知らず私に追い抜かれているかもしれない。だとすれば私が彼に替わり、誰かが 彼に替わるだけだ。私もまた誰かにたやすく替わられることができる。私は自分以外の夜警に会ったことはないが、先行者も後続者も、さらにその先や後ろに延々とつづく夜警の列の、どの顔も私に似ていることを知っている。

 私たちは夜警以外の何にも似ていないのだ。そして夜警は必ず、どのみち、入口の出口のあいだを歩いている。

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埋葬

 棺桶を担ぐ数人の男たちの黒服が道をわたっていく。ひとりは帽子を胸に当て片手で棺を支えている。そのせいか全体のバランスが悪く何度も立ち止 まっては体勢を立て直す。けれど男は片手で持つのをやめない。しまいに帽子を落とした男が拾おうと腰をかがめると、傾いた棺が彼の背中を襲う。「雨が落ち てきたぞ!」叫んだ男は死の重みの下敷きになりながら空を見る。「墓穴が池になるぞ!」彼が立ち上がるのを待つあいだ棺は路面に置かれる。クラクション。 男たちがいっせいに顔をあげる。すべての顔に目鼻がなく、かわりに「へのへのもへじ」があるのを見てドライバーはタイヤを軋ませて車をUターンさせる。男 たちはふたたび棺桶を担ぎ上げ、道をわたりはじめる。目の前にひろがる墓地。墓地の先にひろがる田園。

 ぼくは森の中を勘をたよ りに歩く。遠くに木々がひらけた場所が見え、近づくと田園地帯が森の先を引き継いでいる。ぼくは生物の肛門からひり出されたように森を抜け、まぶしい光に 手をかざして歩きつづける。あぜ道の果てはぼんやりと空気がかすんでよく見えない。天と地が接することなくすれちがっているように見える。

  男たちは墓標の合間を縫って行く。雨はしだいに強く男たちの黒服や、担がれた棺の蓋を濡らしていく。先頭の男が指さした方向へ進路を変える。めざす墓穴が 見えてくる。「やれやれ、肩の荷が下りるぞ!」帽子を胸にあてた男が叫ぶが、誰も返事をしない。「へのへのもへじ」の顔をまっすぐ前に向けて歩調は変らな い。墓穴のかたわらに棺をおろすと、白木の表面に雨がしみこんで変色している。帽子を胸に当てた男がひざまずき、棺の蓋にある小窓に手をかける。「何て こった」べつの男がつぶやく。「そうじゃないかと思ったよ」さらにべつの男が付け加える。ほかの男は腕組みして棺を見下ろしている。開かれた小窓から雨が 内部に降り注ぐ。雨粒を浴びているはずの死者の顔はそこに見当たらない。棺の中はからっぽである。

 ふと雨が上がり、にわかに雲 が切れて空に日ざしがあらわれる。濡れた墓標がきらきら輝く墓地の通路へ、ようやく田園を抜けてたどり着いたばかりのぼくが姿を見せる。男たちは顔を上 げ、いっせいにぼくの方を見る。ぼくは男たちの顔を見て一瞬ひるむが、気を取り直して笑顔をつくり、片手をあげて愛想よく近づいていく。男たちの一人が仲 間に何か耳打ちしている。声はまるで聞き取れない。静まり返った墓地に足跡だけが響く。ぼくは少し不安を感じながら、男たちのもとへと接近する。不安はし だいに大きくなりながら、なぜかそうすべきなのだと固く信じている。

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 東京タワーにからみついた階段が少しほどけて、垂れ下がった先っぽが地面に叩きつけられる。バラバラに分解した踏み板がはねかえって走行中の車に接触、車は傷ついてガソリン臭い血を流している。

  ぼくたちは遥か上の階段からそれを見おろす。ずるずると蛇のようにタワーの頂点をめざして這う階段の先端にぼくたちはいて、展望台の中で騒ぎ立てる観光客 とガラス越しに目が合う。興味本位の視線と指さしを浴びて彼女はすっかり不機嫌になっている。「今日のことはテレビで流されるわ。きっと実名でよ!」そし て両手で顔を覆って嘆く。「みっともなくて会社に行けない」

「君ならフリーだってやっていけるさ」ぼくは出まかせを云って彼女をなぐさめる。「いい潮時ってもんだよ」だが風が強すぎるので、ぼくの小さな声では彼女の耳に届かない。彼女はうなずきもせず黙って空を睨んでいる。

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スイッチ

 髪からうさぎの耳のはえた子供が数人、窓の外にならんで立っている。人間の言葉を理解しない。あるいは、言葉の存在そのものを知らないから、出て行けと私が門のほうを指さしても指先だけをじっと見ている。私の指はささくれが多くて旱魃の地面みたい。

  子供たちの裸の胸にそれぞれ数字が書かれている。6番の女の子が4番の男の子の頭を棒切れで叩き、男の子はラッパのような声を上げて庭をぐるぐる走り回 る。走りながら放尿によって地面にメッセージが記されていく。それは彼や彼女自身の言葉ではない。どこか別な惑星にいるプレイヤーによって送り出された言 葉。かれらはただの筆記具にすぎないのだ。私はメッセージを読みながら、どんな答えを返すべきか考える。子供たちは動きを止め、私の反応を待っている。う さぎの耳がぴくぴく痙攣してどんな声も聞き逃すまいと構えている。

 11番の女の子が私の前に歩み出る。地面と床の落差、それと 背丈の差によって私はひざまずかれている気分を味わう。耳の先端が胸をくすぐる。やわらかそうな白い毛に覆われた耳。思わずポケットからライターを取り出 し火をつけたくなる。上目遣いに煙を見ている女の子。みるまに耳を灰にかえていく炎。

 いやな匂いをたてながら女の子は上から燃 えていく。燃えたところから順に丸薬のような粒になって地面に散らばる彼女。ほかの子供に次々と火をつけると、意外にも悲しい気持ちがわきおこってくる。 いまや丸薬に覆われた庭を隣家の奥さんが窓から見おろす。私は愛想よく笑っておじぎをするが、奥さんは無表情。無表情な奥さんの似顔絵がガラスに描いてあ るだけなのだ。このとき私の中に芽生えた感情に脚がはえて立ち入り禁止の階段をかけのぼってゆく。この世界のいちばん高いところから猛毒入りのキャン ディーをばら撒くために。誰も見てないテレビのスイッチを切るのはいつも、夜更かしの私の役目なのだから。

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ママは旅行好き

 太陽の裏側にまわると小さな巣穴が無数にあいてそこから刑事が出入りしていた。

 刑事の鼻はどれも太陽から垂れた白い糸に繋がれていて、遠ざかるほど鼻の穴からずるずると糸は伸びていく。まるで彼ら自身が太陽という巨大な凧の糸巻きになったように。

「あれは全部本物なの? ママ。見学者向けのショウじゃなくて?」

 幼い頃の私が母親らしい緑色の液体にむかって問いかけている。

「ど うしてそんな疑問を持つのかしらねこの子は。まさか将来変てこな主義にかぶれる手合いになるんじゃ」そしてごくっと唾を飲み込んだ。「…ないかしら。だと したら早くも私はこの子を生んだことを後悔し始めているみたい。私もまた地獄とこの世界を隔てる一枚の無用心なドアにすぎなかったのかもしれない」

 緑色の液体がじわじわ蒸発して船内に緑色の空気をひろげていった。広間に雑魚寝している貧乏そうな身なりの人々が寝息でそれを吸い込んでいる。

 私は酸っぱい味のおいしくないキャンディーが口の中で溶け切ってしまうのを感じた。


 太陽が豆粒の大きさになるまで母親の愚痴は続く。その頃にはすべての人々の寝言が母親の声に変っている。

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ドールハウスの工員

 たいていの天井に頭をこすりつけてしまう、まれに見る大男であるあいつの唯一の趣味は人形遊びなのだ。老若男女、容姿や素性のさまざまな人形があ いつの古ぼけたおもちゃ箱に詰め込まれているが、中でもお気に入りは外科医のボビーというハンサムな中年男の人形だ。白衣と口ひげに特徴があるボビーは妻 と幼い二人の娘、ひとりの肉感的な愛人がいるという設定で、愛人役を務めるのが音大生のメアリー。この娘は無口だがまなざしで多くを語るというか、自分の 云いたいことはすべて男の口から云わせるタイプなのである。

 メアリーとボビーのデート現場が元患者だった工員に廃屋の窓(工員 は無断で住みついていた)から目撃され、鳥打帽を手でいじりまわしながら公衆電話からボビーの医院に脅迫の言葉を送り込んでくる工員の声を、あいつは本業 の霊媒師としての仕事の合間に控え室でひそひそと漏らしている。場面は変り、ボビーがいかにも弱りきった声でメアリーに相談する逢引のホテルの一室。まる で動揺など見せず、けだるそうに愛人に応対するメアリーの台詞をあいつは裏声で、いかにも小悪魔然とした喋り方で人形に語らせていた。すると突然ドアが開 いて助手の広沢が嫌悪感丸出しの顔でこちらを見ていた。

 すかさず霊媒師としての威厳を取り戻した表情で、あいつは人形をでかい 手のひらの中に隠した。立ち上がって天井に頭をぶつけることで生意気な助手を威嚇する。「部屋に入るときはまずノックするものだと、無教養なご両親は坊や に教えて下さらなかったわけだね? 残念なことに」

 頭上から見下ろす大男の馬のような顔が、どんより濁った目でにらむのを広沢 は鼻で笑ってやりたい気持ちになっていた。この男の霊能力と称する代物は、すべて子供だましのトリック(腹話術と手品の組み合わせ)に過ぎないことを世間 に公表してやるべきか? たとえば新聞に投書などして。だがそんな真似をすれば広沢自身の失業も決定的になる。ボロ布のようにこき使われるアルバイト生活 に逆戻りだ。金の亡者である広沢が一時の感情に任せ、一円の得にもならぬ行動に出ることはないとあいつは熟知していた。

 にらみ つけていた表情を崩し、そっと背後でラジオのスイッチを入れて部屋に晩秋にふさわしいフルートの演奏を流す。険悪な空気は一掃され、金儲けという共通の目 的による連帯が二人を包み込む。背丈こそ大人と子供の差だが、脳味噌の程度は驚くほど似通っている二人なのだ。この大男とは前世で夫婦だったのかもしれな い、と広沢は何となく思った。とはいえ霊魂の実在はもちろんのこと、二人とも生まれ変わりなどこれっぽっちも信じてないのは云うまでもない。人間は死んだ らそれですべて終了なのだ。

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河原

 犬が犬の眼で迷路の入口を見すえている。脱がれていくシャツのように裏返りながら犬の頭に吸い込まれていく通路が、いわば迷路の外側に属する空間ごと (巻き込みながら)畜生の世界に移築される件について。私はとくに何も考えたりそれ以前に気づくことさえなく犬を、暮れかけた河原で遊ばせている。犬は興 奮して石ころだらけの地面を走り回り、狂ったように私の投げた木の枝を追いかけて齧りつく。歯型がこの犬の喋れない言葉の代わりにさわやかな主張を残し た。すえた匂いの混じる川の風に飼い主の髪が乱れるのを見上げながら、しっぽはある狭い空間だけを磨き上げている。

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排水口

 煙草のヤニで汚れたスクリーンが、演技や特殊メイクではない本当に殺害されたばかりの若い男を淡々と映し出している。そのとき私は直前に駆け込ん だトイレで、ひとりで用を足していた。トイレの蛍光灯は切れ掛かっており、頭上で点滅するせいで私の前に放尿を受け止める二種類の便器を生み出している。 ひとつは見慣れた白い陶製の明るい便器で、もうひとつは雨雲のように陰気で地下世界への入口を示している四角い穴ぼこ。用を足しながらも私の耳は、上映中 にもかかわらず声をあげてさわぎたてる観客たちの動揺をとらえている。やがて手を洗う私の前に大きな鏡があり、点滅する光の中で私はやはり二種類の顔であ らわれる。暗闇のほうの私が灰色の歯をむきだして笑うと、ぽろぽろと口からあふれた歯が水流に巻き込まれ排水口に吸われていった。私は何も可笑しくなどな かった。

 観客はあくまでショー・アップされた殺戮場面が目当てなので、現実の残酷な死がスクリーン上で見たかったわけではな い。それがスクリーンに映し出されたものである以上、物語の一部となった殺人は現実の殺人とはいえないかもしれぬ。だが撮影中にどんどん腐敗が進み変色し ていく男の顔は、物語の上では数分しか経っていないはずの真夏の児童公園に、現実の死者の時間をねじこんでいることを観客は無視できない。背後の滑り台を 逆からのぼっていくたまたま居合わせた子供が、カメラを意識して何度もふり返り、そのたび撮影が中断して雲の位置が大きく変る。子供は死体に気づいていな いか、死体そのものを知らないのかどちらかなのだ。でなければ死体の匂い始める傍らで、昼間とはいえ、幼児がひとりで遊び続けることなど不可能に決まって いる。私は馬鹿馬鹿しさを隠せず眼だけで笑った。フィルムの入っていないカメラの前で、撮影のふりをして行われる殺人の様子が収められたフィルム。人は未 だかつてそんなものを見たことなどないのだ。

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廃人の仕事

 片足をひきずりながら歩く女には意識がなく、ひきずられているほうの足だけが今では女に残された唯一のものである。あとのすべては天上からふりそそぐ見えない糸の操作が女の意志を肩代わりしている。

  女は時間をかけてたどりついた玩具売場のレジで財布を取り出す。遅効性の毒物をしみこませた紙幣が店員の手を経てレジに収められ、つぎに手に取る者があら われるのをおとなしくそこで待っている。女の荒んだ長い髪にからみつくしおれた花びらや枯れ葉や虫の死骸。それらを時おり口に運ぶことが意識のない女を生 かし続ける食事だった。買ったばかりの「おしゃべり宇宙ウサギさん」を箱ごと屑かごに放り込むと、女の足はつぎに蓋をあけるべき場所へと地獄の釜をひきず りながら去っていく。

 もちろんトイレに行くことなどない意識のない女が垂れ流す小便の痕は、床に黄色い水をなめくじが這った痕のように張るのでぼくらは最後まで彼女を見失うことなどなかったのだ。

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不潔な女からの手紙

 運ばれていくあいだ、口の中で自分が何ごとか呟くのを感じていた。内容はまるで聞き取れなかった。内容などなかったのかもしれない。内容のあるこ とを喋っている意識などなかった。頭はからっぽで頭蓋の壁のひびわれから星の浮かぶ黒い空が見えた。でも今は昼間のはずだ、と私は考えあたりを見わたすと 案の定日ざしがあふれている。私は日ざしの中をどこかへ運ばれていくところだった。尻の下に椅子が川に流される木の葉みたいに心細く存在し、私は自動車の 助手席にいることが少しだけわかる。


 ある瞬間、私は喉を嗄らしてひどい歌をがなりたてている自分に気づ いた。次に気がつくと私は犬のように唸りながらダッシュボードに額をこすりつけている。乱れた髪が目に入り、前がよく見えないので初めて目をこらしてじっ と前を見つめた。そこらじゅうが水に映った景色のようにまぶしく、だが、さっきと同じ日の太陽だとはその眩しさを思えない。目に入った道路標識にえがかれ た人物のシルエットが、私の見覚えのあるものといちいち違っているのが気になる。ひざまずく男の首を、振り上げた刀ではねようとするもう一人の男の図で、 刀をにぎる男は小柄で子供のように見えた。車は信号が変ったらしく急発進したが、信号など見当たらないし車は道路を走っているようには見えない。家と家 の、壁と壁の隙間といえない隙間を紙切れのようにすり抜けていく私たちと車。


 割かれた動物の腹から、は らわたが外にひきずり出される様子をじっと見守っている。処理される動物は魚のような爬虫類のような姿で、まだ荒い息を吐いて震えている。私は生き物の死 を見届けるために、表情のない顔を覗き込んでいるのだ。そのつもりでしゃがんでいると背後からふいに肩を叩かれた。そこでチャンネルが切り替わったのだと 思う。動物の腹から外にはみ出たものは、はらわたではなくボロ布のような服を着た私だった。ふりむくとうしろにあるのは動物の死骸ではなく、歪んだドアの 開いた灰色の自動車で、運転手だった男は私を動物のはらわたのように襟首を掴んで引きずって目の前から始まる森のほうへ運んでいく。私は首を変なほうにね じって男の顔を見上げる。すると男もそういうときにするとは思えないような変な顔つきで、具体的にいうと猿が人間の表情を真似た笑顔のようなものを張りつ かせた顔で、下生えに踏み込みながら私の目を見返した。


「だから云っただろ」そうつぶやいて男は口の端から涎をひとすじこぼした。私はそれを見てこくりとうなずいただろうか。

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霧の坂道はくちぶえの中

 バス停として道端に置かれているのは等身大の若い男の姿をしたマネキン人形である。停留所の名前はマネキンにつけられた名前(モデルになった人物 から何の迷いもなく譲り受けられたもの)がそのまま使われているのでバス停らしくない。口にすると誰かの噂話を始めるような心持ちにさせられるし、私たち にとって会話にまぎれこませにくい困った名前ばかりだった。

 車内アナウンスが次の停留所を「サトウマサオ」だと告げると、それ が私の降りる予定の場所(佐藤正男)だと気づいて降車ボタンに指をふれたまま、誰かがブザーを鳴らすかもしれないという期待をまだ捨ててはいない。間のあ いた車内であきらめてまるでサトウマサオに一票を投じるような納得のいかない、タイミングの遅れた分だけ気まずいブザー音を鳴らすとすでにバス停が間近 だったらしく、バスは急に減速すると歩道のガードレールの切れ目に寄せて身を震わせて止まった。

 歩道に降りてきた客は私のほか に二人つづいた。私はまんまとこの三人の代表をつとめさせられたことを悟ったのだが、民家の庭木の影をからだの半分に受け止めて信号待ちのサラリーマンの ようにたたずむ佐藤正男の人形は、はにかんだような笑みから白い歯を覗かせていて私の気に入るものだった。白い歯は排ガスのせいで黒ずんでいたけれど十分 に白い歯に私には見える。離れて暮らしている年の離れた弟に似ているところがなくもなかった。不慣れなよそものに恥ずかしい役目をおしつける、狡猾な人た ちのことも弟なら笑って問題にしないだろう。ほかの二人の客はそれぞれ知り合いではないらしく、坂道を別方向へ無言のまま歩き出していくのを私はバスの窓 から遠ざかるバス停よりも無関心に眺めた。

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噂は値札のように

 ふわふわした鳥の羽根が集まった真赤な首巻きを、君は血を吐くみたいに背中を丸めてテーブルに置いたのだ。テーブルには他に金色の(でもAuの微 塵も含まれない)腕時計や丸まった靴下なんかが無造作に載っていて、腕時計と靴下のあいだにはホールの八分の七が欠けたケーキ。脱ぎ捨てられたドレスみた いに溶けて垂れ下がる蝋燭が二本。ああ、時間がとまっているのがよくわかるね? 楽しみだったパーティーの時間は、とうに止まってぼくらだけそこから零れ 出して朝陽の下に今はいる。それぞれに、ずいぶんだらしなくなってしまった姿で。

 ゆうべ、窓に額を寄せればまだ星座がたしかめ られた時分、君の扮装といえば「命の危ない夜更けの界隈で、ひときわ殺されそうにしている商売女」と君自身明かしたテーマにふさわしい効果を、十分発揮し ていたといえるだろう。友だちのある者はあからさまに嫌悪の表情を打ち出し、ある者は頬を染めて俯いたきりだったのだ。「馬鹿な女。下着じゃないの?」な んて耳うちしてくる酒臭い息にぼくは軽蔑の微笑を無言でくれてやり、それから君を取り囲みつつある目敏い一団の端に加わったのだ。

  もちろん連中にしたって、ただ君を極端に警戒したり倫理的に拒まないばかりで、相応に下衆なやからであるのはいうまでもない。当人の耳に入らない距離をた しかめたうえで、あんなお姉さんのいる子はさすがちがうね、なんて見当違いの賞賛をしたり顔で口にしていた者がいる。もちろん君に姉さんなどいないこと、 夕暮れに操車場近くの切り通しを並んで下る姿をよく見かけられる、あの真っ赤な首巻きの似合う女性が君のママだということをぼくは知っている。何しろぼく は二人のあいだに右上がりのグラフのように腰掛けて、日曜の車窓に水平線を眺めたことさえ何度もあったのだから。

 あれから何年 もが経ち、かつてぼくに眩しく予感させたとおりの人に君はなったのかもしれない。手鏡の憂いから切り抜いてきた微笑を手放さなくなった君と、交せる言葉は 日ごとに減っていったのだ。ゆうべは誰かの肩越しに「おめでとう」を云うのがせいぜいだった始末の、この残酷な距離がまた、朝陽に撫でられたまぶたの裏で は痛感される!

 目をあけば散らかった皿のひとつひとつが視線の通り道に敷きつめられ、その先にとぐろを巻いた真っ赤な首巻きの 傍らに君はとうにいはしない。額縁のように口をあけた戸口のひとつで、眠たそうに肩を抱かれている君を見つけるのは難しくないのだ。ママみたいに絶対、な りたくないのと呪文みたいに唱えつづけた子供が、あんな衣装の誰より(ママ以上に)ふさわしい人になりつつあるこの発見はそう古いものじゃない。海のきわ に太陽が滲み出しつつある時分、寝息をかさねる母子に挟まれながらまるでぼくはこの家の子供みたいだな、と照れ臭くてまた寝たふりにもどった、あの各駅停 車の床のゆるやかな傾きのこともぼくはこんなにすっかり憶えている。目に浮かぶのだ。

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若者たちへの伝言

 屋上が踊り場の役目をはたしている建物の十三階で、私は今朝からひとりで暮らし始めている。踊り場は上空にうかぶ観音様のかたちをした屠場にいた る階段の中途にあって、だから窓の外を斜めに横切っている鉄製の階段には毎日牛を引いて博労たちがのぼっていくたくさんの姿がみられるのだ。人と牛の輪郭 が朝日を浴びてこの部屋の床に影を落とすとき、この部屋の住人は頭上の空で微笑みに似た無表情を浮かべる観音様のことをつねに思い出してきただろう。私は 踊り場のことも屠場のことも引っ越しが済むまで気づかなくて、観音様は変った形の飛行船、外の階段は非常階段くらいに思っていたのだ。

  テレビのスイッチを入れると再放送のドラマが、ちょうどエンドロールを断ち切られた唐突な印象で終ったところで、こけし型の新発売のおやつのCMが始まっ ている。このおやつは放っておくと髪の毛が勝手に伸び、夜中に家の中を歩き回るのだという。私はなんとなく興味を持ち、画面の隅に表示されている購入ボタ ンを軽い気持ちで押した。すると「お客様には現在この商品はお取り扱いできません」という表示が画面いっぱいに浮かび、クイズに不正解したときのように 「ブー」というブザー音が響きわたる。

 この引越しですべての貯金を使い果たし、足りない分は年老いた親に借り、しかも私が十年 間も無職であることがテレビの向こうには筒抜けなのか? 私は買えないことが分かった途端そのおやつがたまらなく欲しくなり、近所のスーパーマーケットに 万引きしに行くことにした。道を歩いているあいだ、スーパーには私服の警備員が巡回している可能性があることに気づいたので、私はターゲットを非力な老婆 が一人で店番している駄菓子屋に切り替えた。住宅地の一番奥の崖に面した道路にその店はあった。老婆はいつも、悪知恵の働く小学生たちによる万引きを警戒 して店頭で目を光らせているので、私のような中年男性が来店すれば油断するだろう。信号のない国道をまるで障害物レースのように息を切らせて渡りきり、住 宅地のあるエリアに到達。そこから振りかえると私の暮らすビルは巨大な橋桁のようだ。私は道路を渡りきれずに轢かれた様々な動物の一部を靴の底から剥がし 取る。私は私の生活に恐怖を抱くことはないし、だからと言って温泉のような多幸感に包まれているわけでもなかった。私の見ている一寸先はつねに闇である が、何も見えないから、もしそこを光で照らせば凄くいいものが目に入ってくるのでは? とささやかに期待して生きていくことができる。恐ろしいのはすべて が昼の日差しの中で白々とあかるみに出されることなのだ。そのときすべての希望が失われ、私たちは笑いながら線路に飛び込んでいくだろう。

  駄菓子屋は定休日でシャッターが下りていた。だが考えてみればテレビでCMを打たれているような新製品が、こんな崖っぷちにある駄菓子屋に並べられている はずがなかった。私は言葉にならない声を口から発しながらこぶしでシャッターをがんがん殴りつけた。となりの家の全身が黒い番犬が火のついたように吠え始 める。

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帽子

 あなたが私のヒモでいたあいだ、私は赤い帽子の似合う犬を飼っていた。犬に似合う帽子はあまり多く存在しない。あなたがそれを見つけてきたこと が、あなたを少しのあいだ私のヒモにしたのかもしれない。犬が嫌いで、まるで殺されそうな目で見ていたあなたが、あの赤い帽子を手に入れてきたのは意外 だった。けれどそれは本当は、犬ではなく私のために(きっとお金を使わずに)手に入れてきた帽子だったのだ。

 私はそれを被るの はごめんだった。赤い帽子など私に似合ったためしはない。ぞっと身震いして受け取ったそれを、何の気なし犬の頭へ載せてみる。すると新しい窓の鍵がひらく 音がするんと響いた。その日からだった。赤い帽子の似合う犬と、靴の脱ぎかたの汚い男をなぜか私が養う破目になったのは。

 犬に 帽子がいつまでも似合いつづけることはない。それを私は知っていたし、あなたは知らなかったけれど、知ることと知らないことのあいだの不公平は、あなたを いつでも喜ばせた。あなたが嬉しそうにしているとき、罪滅ぼしのように私はお金を使いつづけたし、犬は赤い帽子がまるで娼婦のように似合いつづけたのだ。

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沈滞物件じょうほう

壁に塗りこまれて一ヶ月後に掘り出された人がバイト先に復職してきた。その人(千葉さん)は社員だからいろいろ保証とかもあって別にうらやましくないけ ど、待遇としては手厚いわけだ。もちろん腐ってて触ると書類が汚れるから自発的に手袋はしてる。直接かかわりあう仕事じゃないんで遠目に見てたけど、壁に 塗りこまれる前と較べたら口数が減ったみたい。つまんない冗談とか言わなくなったみたいでそれはみんな内心喜んでるんじゃないかな? 犯人まだつかまって ないけど千葉さんはべつに気にしてないみたいで、今も同じ部屋に住んでて壁の穴は段ボールでふさいでるらしい。どうして平気なんだろうねとバイトの同僚の 子に話したら、知らないんですか千葉さん前にもそうゆう目にあったんですよ。前にも? ってすごく驚いたらなんだ本当に知らないんですかあーって呆れた顔 をされたので、腹が立って棍棒で気が済むまでぶちのめしてやった。棍棒は会社のあちこちに満遍なく転がってる。何しろ当社の一番のヒット商品なのだから。 それで三十分後意識を取り戻した同僚の子が言うには、千葉さんは入社してすぐにも無断で一週間も会社を休んだらしい。心配した同期の子が見にいくと、鍵が あいてて部屋の壁の一部だけ色が違うから、あやしいと思って掘ったら血まみれの千葉さんが埋まってたんだって。今回と同じ壁だよ。きっと学生んときから何 度も埋まってるんじゃない?ベテランだよねーと二人で笑いあい、気がつくと終業時刻だったのでタイムカードに猛ダッシュ。みんな考えることは一緒みたいで お祭りみたいな混雑の中、一体いつになったらこんな生活を抜けれるんだろう。あるいは死ぬまでずっと。と目の前が暗くなった。

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ラジオ

 受験生活の大切な伴侶であったラジオ。中学時代から愛用した、短波も入るラジオ受信機だったが、大学生になって最初の夏が終る頃には、本棚の上で無残にホコリをかぶっていた。
 この春中学生になった妹がそれを見つけて、貸して欲しいというので預けたのだ。
 以来妹は、最近熱を上げている男性歌手××の番組を、毎晩夜更かしして聴いているらしい。隣の部屋から深夜、ぶつぶつと話し声が聞こえてくる。かと思えば突然笑い声が起こったり、それは私にはすでになつかしい、深夜放送の空気だった。
 だが妹は、夜更かしにはまだ慣れない様子である。ラジオを預けてからというもの、すっかり妹の寝起きが悪くなった。時間ギリギリにやっと寝床から這い出してくる彼女は、いつも目の下に大きな隈をつくっていた。
 母親に小言をいわれながら、パンダのような顔で毎朝家を飛び出していく。

 今夜も壁のむこうで話し声がする。時計を見ると一時を回っていた。
 妹の部屋から聞こえてくるのは、ふたりの人間の会話なのだが、どうやらラジオの声だけではないようだ。ラジオのパーソナリティーと誰かが会話しているように聞こえるが、話し声のうち一方はたしかに妹の声だ。私は少々あきれた。
「おまえ毎晩、電波の××くん相手にお話ししてるのかい」
 翌朝、いつものように遅刻寸前にようやく食卓に現れた妹を、私はそうからかってみた。
 すると妹はあくびまじりに首を横に振る。何言ってるの、という顔つきだった。
「だっていつも、番組始まる前に眠っちゃうもん。あー悔しい、きのうも聴けなかった。結局、まだ一度も聴いたことないのよね、××さんの声!」
 私は首を傾げた。「だっておまえ、ゆうべだって夜中にラジオつけてたろう?」
「聴いてないってば、ちょっと何言ってるの?」
 結局私が寝ぼけて幻聴を聞いたことにされてしまい、妹は学校へ出かけた。

 腑に落ちないまま、その日も夜が来た。
 午前一時、壁越しにいつものようにラジオの声が聞こえてくる。
 声はどう考えても妹の部屋から聞こえていた。男女の声が交互に響いて、女の方はまぎれもなく妹の声だった。
 私は廊下に出ると妹の部屋のドアにそっと耳をあてた。
 壁越しに聞くよりも、言葉がはっきりと聞き取れるようだ。
 ラジオのパーソナリティのお喋りにこたえて、妹が何か話しているらしい。
「……そうなのよ、いやになるでしょうまったく……うちのお兄ちゃんおかしいのよ、夜中に妹の部屋に聞き耳たてるなんて変態でしょう……二十歳にもなって 彼女もいないみたいだし、最近目つきがおかしいんです。私の体を横目でじろじろ見るし……留守のあいだ部屋に忍び込まれてるような気もする。机の上の、物 の位置が微妙に変わってるの……もしかしてこのラジオだって、盗聴器とか仕掛けてあるんじゃないかしら? そういえばあんなケチなお兄ちゃんが、すんなり 貸してくれたなんておかしいと思ったもん……」
 聞き耳を立てながら、私は怒りで全身から血の気が引いていった。
 思わずドアをノックすると、妹の声がやんだ。
 返事はない。
 もう一度ノックした。ドアの向こうで、妹は黙ったまま動く気配もなかった。私はノブに手をかけて、ドアを開けるべきかどうか迷った。すると妹はラジオのボリュームを上げたらしく、今度は聞き覚えのある若い男の声がけだるいトーンで聞こえてきた。
「……お兄さんは多分、キミに欲情してるんじゃないかなあ。そんなことって、よくあることだよね。思春期を迎えた妹と、もてない兄との陰惨な性的関係。……お兄さんはキミが大人になったもんだから興奮してるのさ、こんなに身近に無力な異性がいることを……」
 くせのある喋り方はたしかに××の声だ。何度かテレビの音楽番組で聞いたことがある。××はまるで妹の目の前で直接話しかけるように喋り続けた。
「……それでお兄さんは、壁に耳をあてて、キミの着替えや寝顔を想像していやらしいことをしてる。とてもいやらしいことをね……それ以上はちょっと言えな いな。同性のボクとしてはね……ふふふ、それからいいことを教えてあげよう。お兄さんは今、キミの部屋のドアーに耳を押しあててるところだ、そして君の とっておきの秘密を知ろうとして必死に耳を澄ませているのさ。……どうしようもない変態男だ……そんな男を兄に持ってしまったキミに、ボクは最大級の同情 を感じているよ。だからキミはそっと近づいていって、いきなりドアーをあけてごらん。そしたらお兄さん、あわててファスナーをずりあげて、大切なものを挟 んで悲鳴を上げるかもしれないぜ、これはちょっとした見物だろう、ほら早くドアーをあけてみな、今すぐに」
 音もなくドアは開いた。私は唖然として妹の姿を見つめた。
 電気の消えた部屋の中で、妹はベッドの上にちょこんとこちら向きに座っていた。
 廊下の明かりが妹の顔をうっすら照らし出す。妹はびっくりしたような顔つきで両目を大きく見開いていた。
 ところが妹は、どうやら私が目の前にいることにまったく気づいてないようだ。見開いた目は人形みたいにあらぬ方向を見てじっと固まっていた。恐る恐る私 が声をかけると、視線をこちらに向けようとゆっくり移動するのだが、目玉は私を素通りしてまたどこか別のあらぬ方向を見て止まってしまう。
 私はそっと部屋に踏み込んだ。
 ラジオは机の上にあった。電源ランプが消えている。
 ほかに音源になりそうなものはどこにも見あたらない。
「ほらごらん、お兄さんはかわいそうに呆然と立ち尽くしているじゃないか。妹のプライバシーを覗き見ようとしたことがついにバレて、禁断の性欲が白日のも とにさらされて、もはや言い訳もできやしないお兄さん。どうしていいかわからないのさ。……お兄さんはいま気が動転しているから、何をしでかすかわからな いよ。放っておけばもうすぐキミの首を絞めに来るんじゃないかな。たいへんだ、キミのお兄さんはきっとキミの首をぎゅーっと絞めに来るぞ、変態の兄がキミ の首をぎゅーっと力いっぱい絞めに……」
 私は妹の両肩をつかんで激しく揺すぶった。しっかりしろ、しっかりしろと言いながら何度も肩を揺すぶると妹は「ぴー、きゅるきゅるきゅる、がーっざ ざーーっ」とラジオのチューニングを回すときのようなノイズを口から発したあと、ばたんとベッドに倒れ込み、そのまま静かに寝息をたてはじめた。

 翌朝。いつものように目の下に隈をつくり、妹は時間ギリギリに食卓に現れた。
 私の前に座ると、私の目を見て憤懣やるかたないといった調子でまくしたてた。
「もうアッタマきちゃう。だってゆうべはぜったい聴こうと思って、コーヒー三杯も飲んだのにやっぱりダメだった! どうしてあたしってすぐ寝ちゃうんだろう、子供じゃないのに。……気がつくと朝なんだからもう。あーいつになったら聴けるのかなあ××さんの声……」
 そしてものすごいスピードで牛乳を飲み干すと、ニカッと笑った。時計を見てあわてて玄関を飛び出していく。
「ほんとにあの子ったらしょうがないわねえ、毎晩遅くまで何してるのかしら」
 台所で母親があきれたようにブツブツとつぶやいている。
「ラジオ聴いてるんだよ、あのくらいの齢の子はみんな」
 私は食後の煙草をふかしながらそうこたえた。

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ガスタンク

「マギーか?」
 ペキンは玄関まで届く頓狂な(それは彼の特徴だ)声をあげた。
「いや、マギーは死んだ」
 ドア向こうで抑揚のない声がぽつりと答えた。
「何を云ってるんだ?」
「無残に散らばって、骨の一本さえ残らない有り様だった」
 しばらく沈黙ののち、突然立ち上がったペキンは覗き窓から外を見る。
 喪服のように黒ずくめの男が一人。
「公害研究所の生き残りは、これで俺達だけだ。何度でも云う、復讐だよ。もう『運動』の理念なんてものは糞の役にも立たない。便所紙のかわりに、必要なのはナイフだ。銃だ」
 ズカズカと上がり込んだ男は、言葉の激しさと裏腹にきわめて冷静な口調でつぶやいた。
「マギーに食わせるはずだった、自家製のヘコキババグサを摘んできた」
 テーブルに投げ出された篭。甘い花の香りが、墓前のようにひろがる。
 皿を並べながらペキンは嘆いた。
「すべては俺の油断……致命的な判断ミスだ。奴らを甘く見ていた。俺が死ぬべきだったのだ。よりによってマギーみたいな奴が……」
 言葉にならない部分を、ペキンの喉がこわれたブレーキみたいな嗚咽に変えた。

 夜が地底のように暗く更けていく。
 生き残った二人は、物静かな晩餐を終えたあと、食卓に立てかけてあったマギーの写真を燃やした。
「骨の焼ける臭いだ」
 黒服の男が窓を開けた。
 手の届きそうな距離にガスタンクの影が並ぶ。膨れ上がった蛙の腹のように、月夜にそれは無防備にさらされて憂鬱を誘う。彼らがまだ若かった頃、あの球体 の頂上で『運動』に命を捧げた男の最期を見た。燃えながら落下してくる活動家を、吹き上げる水の柱が何度もガスタンクに叩きつけ、活動家は炭になる前に頚 骨をへし折られて死んだのだ。
 マギーもあの光景を見ていた。熱病のように唇を震わせて。
「あれが原点だった。俺たちはあの男の姿に、犠牲の美学と熱情とを学んだ。マギーは誰よりも『運動』の原点を守り抜いた男だ。彼を失った今、何かが決定的に壊れて修復不能になったことを、俺は認めざるを得ない」
 ペキンの声にもう嘆きの響きはなかった。機械の声のように感情が抜け落ちていた。
「あいつは本当は陶芸家になるはずだった。この花瓶もマギーが焼いた物だ」
「それは初耳だな」
 黒服の男が立ち上がり、殺風景な部屋に場違いな、高貴な貝殻のような花瓶を手に取った。
「たしかにいい出来だ。ほかにもあるのか?」
「ああ」
 そう云ってペキンは部屋の隅から、地下室への階段を静かに下る。
「ここにあるのは全部、マギーの作品だ」
「これは……単なる陶芸家のこしらえた物とは思えないな」
 薄暗がりの中で、黒服の男は腕組みした。
「まるでカタコンブに迷いこんだみたいだ。屍臭がしないのが不思議だ」
「美しいだろう?」
 ペキンはひとつを手に取って、天井の白熱灯にかざす。それは女の左手だった。乳白色の皮膚を持ち、痙攣を思わせる表情に凍りついた手首。だが触れた感触そして重みは、それが床に落とされた瞬間砕け散る繊細な陶器であることを伝えている。
 黒い服の男は、恐る恐る棚に飾られた顔――死体から剥がされたような――に手を伸ばす。だが表面を指紋で汚すことを想像して躊躇する。
「何で今まで隠してた」
「マギーの意志だ。これを見た人間は何て云う? 『運動』なんてやめて作品をつくれ。芸術家になるべきだ。そうだろう? マギーはそれを恐れていた」
「馬鹿な男だ」
 狭い室内のぐるりを女の足首、女の尻、女の眼球、女の骨……それは異常者の冷凍室のように、いくつもの生命を犠牲にしたコレクションのように美しい。
「出よう、なんだか目眩がしてきた」
 テーブルを挟んだ二人の無言。
 灰皿の中の灰。壁の地図の赤。くすんだ天井。秒針のリズム。冷気。
「モデルがいたんじゃないか?」
 黒い服の男が口をひらく。ペキンは答えない。
「死人が必要だったはずだ。どうなんだ?」
「やめよう、マギーが死んだ夜だ」
「引田君が死んだのも、こんな夜だったな」
 ペキンの顔から色が消える。かまわず黒い服の男は続けた。
「彼女は企業側のスパイだった。そういう報告だ。そして逃亡中に事故で死んだと。だが新聞には何ひとつ載らなかった。公安の隠蔽だ、というのが君の主張 だったね? だがこうも考えられる。警察は死体を見ていない。なぜなら、死体は放置もされなければ、どこかに埋められたわけでもない。ある人物に引き取ら れた。何のために? 芸術のため……」
「マギーは死んだ」
 ペキンの唇は動いたように見えなかった。が、言葉は銃声のように響いた。
「運動は彼を殺した。そして、引田君もだ。我々は生き残ってここにいる。間違ってるのはこっちの方だ。我々はうす汚れた卑怯者だ。死んだ人間はきれいだろう? すべてを捨てていくのさ、罪も栄光も」
「彼も陶器になりたかったんじゃないか」
 黒い服の男が地下への扉に視線を移す。
「そしてあの部屋で、引田君とともに静かに眠ることを……」
 冷気。秒針のリズム。くすんだ天井。
 壁の地図の赤。灰皿の中の灰。
 まがった月。
 切り抜かれた夕刊。
 警笛。
 足音。
 ガスタンク。
 足音。

「死には(まるで絵画のように)複数の意味がある。死者はいくつもの名で呼ばれ、すべて返事をかえさない。彼の死はすでに彼のものではなかった。彼はすべ てを紛失し死だけを残す。明け方の海、雨雲が日の出を遅らせ彼に必要な体温はすでにもどらない。土や水と同じつめたさになること、それが死だ。機械に生ま れるべきだった、機械ならつねに単数の時間を反復するだけ。死者は壊れた機械ほどにも無意味にはならない。何も見ない両眼は、覗き穴として我々を誘惑す る。暗い空洞を覗かせる窓にまぶたを下ろし、目の届かない深さに埋めてしまうしか、我々があの複数の迷路を避けて通るすべはない。バクテリアと蛆が蹂躙す る空洞で、謎が謎のまま崩壊する時間を無視するために。死者はいつも他人だった。死はひそかに孤立する、それは誰にも所有されない、ただ死だけが我々を一 人ずつ順番に手に入れるだろう……」

 テープが終わり、雨のようなノイズが流れる数分。
 からっぽの棺桶一杯に詰め込まれたヘコキババグサの香り。
 その一本一本に、びっしりと小さな虫がたかって泡粒のように蠢いている。
 穴ぼこだらけの青い葉が歩き回る虫の重さでしきりに揺れる。
 棺桶の中で波打つ白い花びら。
 その下から静かに浮かび上がるように響く咳。
 虫食いの葉音がざわつく。

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雨で血が止まらない

 新しい世界が始まった。目を開くと太陽が眩しい。耳には子供たちのはしゃぎ声。鼻にはバラの香り。そして夏の午後は涼しげな風が、冬の夕べには優しい火の温もりが。
 私は夢のように高揚した気分で家を出た。新品のサンダルの立てる足音が、目の前にひろがる風景に句読点を打っていく。まるで書かれたばかりの小説を読む ように、私は散歩を楽しんだ。道はくねくねと予想できない方向へ曲がり、スリルが生まれる。まったく先が読めない。今ほんの鼻先に現れた郵便局が、気がつ けば遠い丘の上にシルエットを見せる。いい匂いのする街路樹を抜けると、見事な滝の落下する崖へ。そして隣町やその隣町まで続く広大な地図のようなパノラ マ。私はひとまずここに座り込んで、友人に手紙を書こうと思った。
「前略 今君がどこにいるか、ぼくの知ったことじゃない。たとえ地獄や刑務所であろうと、同じだ。それより聞いてほしい。ぼくの素晴らしい生活のことを。 ひとつはドクロ吉田というプロレスラーについてだが、彼の栓抜き式ヘッド・ロックが正真正銘の必殺技だったという驚き。彼はこの悪い冗談で、本当に一人の レスラーの頭蓋骨を破裂させてしまった。脳味噌の飛び散る瞬間がテレビで生中継され、社会問題になった。最悪だ。死んだハンマー杉田には気の毒だが。それ からもうひとつ。近所に目を見張るようなコンビニを発見した。店を入ると左手にレジがある。だが店員の姿はなく、かわりに七面 鳥と孔雀が歩き回っている。手前の棚は普通のコンビニだが、奥に行くとパンダを殺すための薬品や、指紋で石油を掘る機械、美女の写 真、ニセ札などが売られている。ぼくは大喜びで翌日も出かけたが、すでに潰れていた。君が昔住んでいたアパートの近所にも、似たような店があったね。もっ ともあれは床屋だったけれど」
 手紙を投函しようとして私はようやく気づく。郵便局は丘の上だ。引き返すのは面 倒に思える。それに今日は妻の命日だから、夜になれば亡霊が現れるはずだった。年々ひどい姿に変わっていく妻は、枕元でぶつぶつ聞き取れない言葉を高圧的 につぶやくだろう……。腐った皮膚から枯れ草のように抜けた髪の毛が、顔のうえに落ちてきて私は身動きできない。もうじき日は沈む薄暗がりの静寂。死者を 悼む笛のような汽笛。私は憂鬱になっていた。そんなじめついたすべては暗い過去のほうからやってくるのだ。風に混じる土の匂い。いつのまにか雨が降り出し て私は濡れている。死人の手のように冷たい髪の毛が額に垂れ下がる。
 私はポケットから鍵を取り出した。人肉で出来ているとしか思えない、生温かい鍵だった。おもむろに作業ズボンを膝まで下げると、私は本来なら性器のある べき部分にぽっかりあいた鍵穴にそれを慎重に差し込む。鍵が底をつきとめたところで、たしかな手ごたえとともに右へ回転。すると目前の景色が同時に右へぐ るりと移動し、まったく異なる風景がたちまち左方向から入れ替わりに出現する。まるで年号が変わる瞬間のように劇的に。にわかに遠ざかる雨音。つぶやくよ うな雨音……
「新しい世界が始まった。目を開くと太陽が眩しい」

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Dr.STRANGELIMB【い】虐殺保安官

 破壊された商店街を西に歩く男がいた。
 うすい煙が瓦礫のあいだをゆらゆら上り、焼き場のような臭気が時おり鼻をつく。
 崩れたアーケード屋根に「駐車禁止」の標識が突き刺さり、略奪後の宝石店みたいにガラスが全滅した肉屋が、老主人の肉塊を店頭に放置してぐずぐずに腐らせている。ひどい匂いだ。
「レントゲン砲をモロに食らったみたいだ。顔がないな、前半分をごっそり持っていかれてる」
 男は現場検証の刑事みたいな独り言をつぶやきながら死体をまたぎこした。
「さすがにロボットのやり口は違う、正確で冷淡だ、食品工場並みだ」
 宇宙からの催眠音波は一晩中降り続け、町で今正気を保ち事態をまともに把握している人間は誰もいない、はずだった。だが男は、幼児期に両親から受けた虐待により脳の一部を破壊され、治療でインド象の脳を部分移植された経験が幸いしたらしい。
 この町でたった一人の理性は、西に向かっていた。
 目つきのおかしい女が路地からふらついて出てきた。アスファルトのひびに足をとられてよろめく。まくれ上がったスカートの下は裸の尻で、大便がエクレア のように一面へばりついている。薄い胸をかきむしりながら何か云いかけるが、言葉にならないらしい。よだれが水飴みたいに粘っこく糸を引いて顎から垂れさ がった。
 典型的な催眠患者だ、男は女の赤い頭を軽く蹴とばして路地に追いやった。
 尻もちついた女のまわりに見る見る水たまりがひろがる。
「発電所の自動運転はいつまで続くのだろう? 持って三日というところか。この町が本当に死に始めるのはそれからだ。まるで葬送の音楽のように、ゆっくり破滅が蔓延する。しかしそれを悲しむ能力のある奴は残されていない、看取る者のない臨終だ」

 男はプロレスラーとしてはさっぱり大成せず中年を迎えていた。肉体の衰えは彼を観光マッチの悪役スターの座からも引きずり落とした。
 ある晩、いつものように鞄ひとつ提げて通用口をくぐった彼にプロモーターはこう声をかけたのだ。
「エディ、今日は君が改心する記念すべき夜になる。お客は新たなヒーローの誕生に酔いしれるだろう」
 それは男にとって死刑宣告に等しい言葉。手に負えない悪党が正義の軍門に下り、しばらく従順な下僕として働いたのちにフェイド・アウト……それがこのアル中の田舎座長が使い回すお決まりのシナリオだ。
 とうとう自分の番が回ってきた……男は目の前が暗くなるのを感じた。
 与えられた仕事を大人しくこなせば、それでも半年は食いっぱぐれないはずだった。
 だが自暴自棄になった男はその日、ひなびた観光地の英雄相手に唐突にセメント・マッチを仕掛ける。
 必死で目で訴える若造を、鼻が曲がるほど殴りつけ血だるまにしたうえ、失神した相手に馬乗りになってパンツを膝まで脱がした。
「こいつはとんだホモ野郎でプロモーターとできてる」「リングじゃこの通り最悪の実力だが、穴の締まりはスッポン並みだ」そうわめいてリングを下りた。
 通路を引き上げるとき売店で売ってるアップルパイが二、三個背中に飛んできた。そのまま会場を飛び出てタクシーを拾う。突然裸の大男に乗り込まれた白髪の運転手は、冷めた小龍包みたいに顔をこわばらせていた。
 男はまず顔なじみの娼婦に金を借りようとアパートのドアを叩いたが不在。しかたなく別れた妻を訪ね、いくらかの金と上着を借りて聞くに耐えない罵詈を背中に浴びながら車に戻った。
「旦那、女どもの口はベッドでふさぐしか方法はない……て昔からね」
 ようやく運転手が声をかけてきたが、男は無視して皺だらけの札をかぞえはじめた。

 老人としみったれた商店主ばかりの赤ら顔の一団相手に、旧時代のギャング風に見得をきる権利さえ奪われた男は途方に暮れた。
 リングに立てない彼はただのでくのぼうでしかない。生まれてからまともに働いた経験はないし、若い頃短期間ではあるが、盛り場の用心棒で酒代を稼いだのが唯一の仕事らしい仕事だ。とりあえず旧知の賭博屋を何人か訪ね回ったところ、
「もう人間の仕事じゃないんだよエディ」
 そんな返事がかえってくるばかりだった。
「たしかに、人間の出る幕じゃない。これならイカサマ野郎のはらわたも三十秒で蒸発だろう」
 男は歩道に散らかった人間の残骸をつま先で転がした。肋骨の内側が見事にえぐりとられ、盗まれたように何もない。ライオンが食べ残しの獲物を放置したみたいに無造作、そんな死骸が電柱よりも頻繁に目につく。覗き込むと顔に熱気を感じた。
「まだ遠くないな」
 耳をすませれば、何も聞こえない。だが確実に足の裏につたわる断続的な振動。爆撃のような足音で今1キロ四方にあの発狂した機械が、酔客の足取りで物理学の死神が、不格好な殺戮のダンスを踊る。その気配を感じたとき、はじめて男の心に恐怖が芽生えた。
 だが男は西へ向かう歩みを変えない。たった今蹴とばした死骸は一週間前、リングで不様に失神した若造だった。田舎町のささやかな歴史は終わった。男は帰 るべき場所も、唾を吐くべき地面も残されていないのを知っていた。懐かしがるものさえ何もない。すべては紙切れのように空しい。
 “虐殺保安官”ピーター・モルガン。必殺技ネック・ハンギング・ツリー。

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Dr.STRANGELIMB【あ】博士の変な手足

 今夜もロボットがひたひた歩いてきた。発狂した電子頭脳が迷子のようにぼくをさがすあの気配。薄暗い宇宙空間にぼくときみのアルバムいっぱいの思い出ひ ろがる深更を、銀色のシェルターみたいなデカ足で蹂躙する一つ目の巨人……殺人ビームで二万人殺しの死刑囚サウスポー・ジャック。あいつに人並みの理性や 知能を期待するだけ無駄だ。あらゆる生身の苦痛や懊悩を白目しかない赤外線アイは理解しない。見つめるのは虚無。踏み潰す人間の情報すべてをデータ・ベー ス化するあいつはすぐれたマーケティング屋だった。それがあの日からあんなことに……。
 手足に進化の徴候があるとして博士はまるで英雄扱いだった。ぼくらの栄養不良な間伐材みたいな四肢とくらべて新時代的デザイン、博士は代々博士の家で富と技術を惜しみなく注ぎ込まれた「嫡子にして作品」だ。
「ママが優しく遺伝子撫でてくれた。パパのつくる化学スープは骨まで滲みたね」
 生まれながらの半機械生命。しかしアンドロイド呼ばわりが死ぬほど嫌い。
「私はいつか立候補したいが今の法律じゃ機械は無理でね」
 夏の午後アルバイト帰りにぼくはきみに出会ったあの日。下水溝に轢き逃げされた小人みたいな目でぼくを見ていたあの顔。拾い上げた手のうえで笑った仮面みたいな女の子それが最初だった。
「誰かに似てるね、気のせい?」
 肺も喉も持たない薄い君はただ笑うだけ。
「気味が悪いわ明日のゴミに混ぜちゃいなさい勉強に差し支えるわ」母が顔を曇らせ重苦しい空気の食卓。「そんな怪我でまだ生きてるの? だからロボットなんて本当に怖い」
 口の中に製造番号。これは博士の初期デザインでぼくはマリーと名づけた。
 マリーを手に取りそっと顔にあてがってみる。鏡の中のぼくはマリー。マリーはぼく。

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