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未明

 列車は夜にさしかかり、次の駅はテラノミチですと告げられ妻は顔を曇らせた。窓は疲れた顔の夫婦を映しそのむこうに田圃がひろがりそのむこうは闇。時お り近くの座席で中年女らしい独り言がきこえるほかは人の気配がなく、それでいて座席はほぼ満席だ。テラノミチには知り合いがいるわ、と妻は窓の向こうの私 に言う。暗い景色の流れに浮かぶ私の顔はうつろな目を上げてこちらを見るのだが、言葉を返す様子はなく、闇の濃い田園の果 てのほうに気がいっているようだ。ここから見える視界の限界あたりの場所で、今何が起きているのか、永久に知らぬ まま列車は夜を走り続けている。手に負えない推移の連続的な眩暈は、闇に隠されてただ気配としてだけつながっていて、背筋をつたわり気が遠くなりかける。 そこへ車輌のドアの開く音がグシャッ、と響き、明るい車内の映像に焦点が結ばれると、小肥りな車掌が近づいてきて、妻の名前を呼んでいる。妻は自分の鞄を 手に持って立ち上がると、車掌のあとを消えた。立ち上がるとき妻は、窓の中で私と目が合ったのかもしれない。明日の午前四時頃、列車は故郷の町を通 過する。なだらかに広がる斜面と蛇行する川があの町だ、そのとき妻はどんな感想を口にするだろう。夜の窓に映る顔は病人のようだ。列車の揺れがだんだんと 心地よく瞼に響き、遠くから踏切の音が、たちまち近づいてまた遠ざかるのを聞いたあたりで、どうやら眠ってしまったらしい。ふと、水底から浮き上がるよう にして気がつくと、車内の顔ぶれが少し替わっていて、いくつか話し声が聞こえ、空と町の接するあたりが薄明るくなりかけている。夢を見た気がするのだが、 思い出そうとしても子供のときに見たサーカスの夢にすりかわってしまい、それは目の前を行き来する空中ブランコにいつまでも跳び移れず、うしろには次の乗 り手がずらりと並んで順番を待っている。そんな夢だ。そのむこうにぼんやりかすんでしまった夢のことを思うと、胸騒ぎがする。時計を見ると四時半を回って いた。妻は、と気づいて見ると隣は空席のままで、しばらく待ったが踏切を二つ過ぎたところで車掌が通 りかかったので、私は呼びとめた。妻はどこへと訊くと車掌は首をかしげた。故郷の町の名を告げ、もうそこは通 り過ぎてしまったかと問えば、いいえ先ほど人身事故があった関係で、列車は予定より大幅に遅れております。事故後の処理に、とても時間がかかってしまいま した。あんな時間に飛び込みなんて、とても珍しいことなのです。まだ若い女性だったようです。不幸なことです。しかもあんな田圃の真ん中の、さびしい踏切 だったというのに。私は、その残酷な光景をまざまざと見たように感じながら、それでもテラノミチはとっくに過ぎただろう、じゃあ妻は、君に連れていかれた あと、テラノミチで降りてしまったのかも知れない。妻は、知り合いがいると言っていた、あのテラノミチの駅で。きっとそうだ妻は、あの窓の外に続いていた 闇の中の、おそらくそこで妻を待っている誰かのところへ、私は、それにはちっとも気づかず、ここにこうして置きざりにされて。と、ぐったり途方に暮れる私 に、すると車掌は、冷たく首を横に振ってみせた。いいえお客さんテラノミチなんて駅はありません。奥様をお連れしたというのも何かの間違いでしょう。それ にお客さんは、最初からずっとお一人で、そこに座っておられたのではないですか? お隣りは、はじめから空席ではありませんでしたか? 列車は間もなく ○○に着きます、そうして車掌は固い笑みを残して、ふらりと後ろ姿を向けて車輌を出てゆく。その背中に向かって私は、音をたてて閉じるドアに向かって私 は、身を精一杯乗りだして、いや私は妻と二人でこの列車に乗っていたし、この窓に二人の顔が映っていたし、テラノミチへ引き返す列車には、どこから乗れば いい? たしかに妻は、テラノミチには知り合いがいると言い、そして妻は、愛する妻は、私のとなりにいて、暗い窓の向こうに並んで座っていた妻は。

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