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外套のからっぽな博士

 あいつのことだ。あいつを覚えているか? メガネのむこうに何もない奴……
 今夜あいつがやってくる。十年前と同じ名前。同じ姿で。人形みたいに震えた足どり、虫歯だらけの口を笑わせて。

 終電車が団地裏にジッと影を滑らせて、踏切の点滅がすべて終わる。
 これからだ! 死んでいるのに歩く男。この暗黒があいつの時間だ。錆びた時計は零時に蠢き、あいつは何度でも目を覚ます。ひどい悪夢にうなされながら、首と手足が魚みたいにピクピク痙攣しながら立ち上がったあいつ、なんて痛ましいあいつの影……

 あいつは自殺するたび強くなる。あいつが怖い。眠れない。
 あいつは幽霊なんかじゃない、現実だ!
 イヤな目でこっちを見てる。
 あいつの頭の中は薄暗い廃屋。
 あいつの口からもれるのは墓場の静寂。
 誰もいないあいつの世界。
 いつかあいつに殺される。あいつの世界に呼び出される。
 どうしよう、逃げればいいのか、どこへ?
 あいつのいない場所へ。そんな場所があるのか? ない。
 逃げ道ない。希望がない。この世はすべてあいつの目の前。
 腐った学生服と雑草みたいな髪の毛が、ゆらゆら坂道をのぼってくる。
 卒業アルバムにも載っていない、あいつの名前。
 誰もが忘れたいのに、忘れられない足音が帰ってきた!

          *

 ぼくはとうとう生きているのがダメになり、屋上の柵の外へ立ってみたんですけど、ぼくはあんまり高くて恐ろしいので、もらしたおしっこがズボンの中でさ らさら流れて、つま先のずっと下で小さな頭がグラウンドのすみっ子でおしゃべりしてた、女の子のあたまにぽたぽた垂れて「雨!」って、その子が上を見てぼ くと目があった。恥ずかしい! おしっこしてるところ見られた! ……気がつくとぼくは地面 に顔をつけて笑っていました。

 おかしくないのに口がひらいて、ほっぺたがひきつって動かないのでぼくは笑っている。笑い声のかわりに血がたくさん出て、ぼくは女の子に「あれは雨じゃ ないよ、おしっこだよ!」と云おうとしたけれど、うがいみたいにブクブクいっただけで、すぐに息も出なくなった。
 たいへんだ! 息をしないと死んでしまう! でもちっとも肺がぴくりとも動かず、ぼくは自分から流れた水たまりのうえで顔も知らない先生や、校長先生の 見たこともない青い顔を横目に見るうちに気が遠くなり、サイレンが聞こえてるなあ、怖い、怖い、と思ったらそこは何だか救急車のなかでした。

 でも、むりやり酸素を押し込んでくる機械や、無線のあわただしい声よりも、車の外で道路わきのドブ板のうえを黒い外套が雨雲みたいにすーっと通るのが、墜落ショックで薮睨みになったぼくの目玉にはよく見える……黒い外套の背の高いおじさん。おじさんが名前を呼ぶので、ぼくは車から降りて目の前のどぶに入り、くさい水の底へゆらゆらと沈んでいきました。
 ボロボロに折れた手足が勝手に泳いでくれる、ぼくはカナヅチなのに! あの真っ暗な虫の死骸でできたビルの屋上まで、ぼくらは無事に沈んでいきました。 「未確認世界研究所」の看板が目に入るまで、おじさんがどこかの博士だということをぼくはまるでしらなかった。

「それじゃ博士、ぼくはやっぱり死にましたか」
「気にすることはないね、少年。死人が生き返った先例は数え切れないのだから」
「博士、ぼくは息ができないので、喋れません。これじゃあぶたれても『ヤメテー』っていえないです」
「一度死人になった人間を、殴るような度胸の持ち主は珍しいのだが」
「それじゃあ博士、ぼくは明日も学校へ行けるのですか?」
「明日だけでなく、このまま永久に中学一年生だろう」
「なんだか目の前が暗いのです。まるで眠っているみたいに、ぼくのまわりが薄暗くてつめたい、博士の顔はよく見ると外の工場の煙が揺れてそう見えただけ で、博士の声も、遠くで犬が遠吠えする声がそう聞こえただけかもしれない。だからほんとうはぼくはまだ救急車の中で、赤信号をいくつも振り切って走る、白 い車体の中で、忙しく動き回る影に囲まれて、著しく形の崩れた子供がひとり、手遅れの処置を施されながら少しずつバクテリアの餌食にされている。折れた首 はともすれば車の振動に合わせて捻れ、ありえない方向を振り返り、白目をむいて誰にでも陽気な挨拶を送る、こんばんは、こんばんは、ぼくがあなたの地獄で す。こんばんは、もしも写 真に余分に写っていたらそれはぼくの手、握手をしよう、この手と、こんばんは、屋上の、柵の外でぼくと握手、昭和六十三年九月九日、午後三時四十四分、も うじき西瓜みたいに頭のかち割れるぼくと、きみと握手」

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