ガスタンク
「マギーか?」
ペキンは玄関まで届く頓狂な(それは彼の特徴だ)声をあげた。
「いや、マギーは死んだ」
ドア向こうで抑揚のない声がぽつりと答えた。
「何を云ってるんだ?」
「無残に散らばって、骨の一本さえ残らない有り様だった」
しばらく沈黙ののち、突然立ち上がったペキンは覗き窓から外を見る。
喪服のように黒ずくめの男が一人。
「公害研究所の生き残りは、これで俺達だけだ。何度でも云う、復讐だよ。もう『運動』の理念なんてものは糞の役にも立たない。便所紙のかわりに、必要なのはナイフだ。銃だ」
ズカズカと上がり込んだ男は、言葉の激しさと裏腹にきわめて冷静な口調でつぶやいた。
「マギーに食わせるはずだった、自家製のヘコキババグサを摘んできた」
テーブルに投げ出された篭。甘い花の香りが、墓前のようにひろがる。
皿を並べながらペキンは嘆いた。
「すべては俺の油断……致命的な判断ミスだ。奴らを甘く見ていた。俺が死ぬべきだったのだ。よりによってマギーみたいな奴が……」
言葉にならない部分を、ペキンの喉がこわれたブレーキみたいな嗚咽に変えた。
夜が地底のように暗く更けていく。
生き残った二人は、物静かな晩餐を終えたあと、食卓に立てかけてあったマギーの写真を燃やした。
「骨の焼ける臭いだ」
黒服の男が窓を開けた。
手の届きそうな距離にガスタンクの影が並ぶ。膨れ上がった蛙の腹のように、月夜にそれは無防備にさらされて憂鬱を誘う。彼らがまだ若かった頃、あの球体
の頂上で『運動』に命を捧げた男の最期を見た。燃えながら落下してくる活動家を、吹き上げる水の柱が何度もガスタンクに叩きつけ、活動家は炭になる前に頚
骨をへし折られて死んだのだ。
マギーもあの光景を見ていた。熱病のように唇を震わせて。
「あれが原点だった。俺たちはあの男の姿に、犠牲の美学と熱情とを学んだ。マギーは誰よりも『運動』の原点を守り抜いた男だ。彼を失った今、何かが決定的に壊れて修復不能になったことを、俺は認めざるを得ない」
ペキンの声にもう嘆きの響きはなかった。機械の声のように感情が抜け落ちていた。
「あいつは本当は陶芸家になるはずだった。この花瓶もマギーが焼いた物だ」
「それは初耳だな」
黒服の男が立ち上がり、殺風景な部屋に場違いな、高貴な貝殻のような花瓶を手に取った。
「たしかにいい出来だ。ほかにもあるのか?」
「ああ」
そう云ってペキンは部屋の隅から、地下室への階段を静かに下る。
「ここにあるのは全部、マギーの作品だ」
「これは……単なる陶芸家のこしらえた物とは思えないな」
薄暗がりの中で、黒服の男は腕組みした。
「まるでカタコンブに迷いこんだみたいだ。屍臭がしないのが不思議だ」
「美しいだろう?」
ペキンはひとつを手に取って、天井の白熱灯にかざす。それは女の左手だった。乳白色の皮膚を持ち、痙攣を思わせる表情に凍りついた手首。だが触れた感触そして重みは、それが床に落とされた瞬間砕け散る繊細な陶器であることを伝えている。
黒い服の男は、恐る恐る棚に飾られた顔――死体から剥がされたような――に手を伸ばす。だが表面を指紋で汚すことを想像して躊躇する。
「何で今まで隠してた」
「マギーの意志だ。これを見た人間は何て云う? 『運動』なんてやめて作品をつくれ。芸術家になるべきだ。そうだろう? マギーはそれを恐れていた」
「馬鹿な男だ」
狭い室内のぐるりを女の足首、女の尻、女の眼球、女の骨……それは異常者の冷凍室のように、いくつもの生命を犠牲にしたコレクションのように美しい。
「出よう、なんだか目眩がしてきた」
テーブルを挟んだ二人の無言。
灰皿の中の灰。壁の地図の赤。くすんだ天井。秒針のリズム。冷気。
「モデルがいたんじゃないか?」
黒い服の男が口をひらく。ペキンは答えない。
「死人が必要だったはずだ。どうなんだ?」
「やめよう、マギーが死んだ夜だ」
「引田君が死んだのも、こんな夜だったな」
ペキンの顔から色が消える。かまわず黒い服の男は続けた。
「彼女は企業側のスパイだった。そういう報告だ。そして逃亡中に事故で死んだと。だが新聞には何ひとつ載らなかった。公安の隠蔽だ、というのが君の主張
だったね? だがこうも考えられる。警察は死体を見ていない。なぜなら、死体は放置もされなければ、どこかに埋められたわけでもない。ある人物に引き取ら
れた。何のために? 芸術のため……」
「マギーは死んだ」
ペキンの唇は動いたように見えなかった。が、言葉は銃声のように響いた。
「運動は彼を殺した。そして、引田君もだ。我々は生き残ってここにいる。間違ってるのはこっちの方だ。我々はうす汚れた卑怯者だ。死んだ人間はきれいだろう? すべてを捨てていくのさ、罪も栄光も」
「彼も陶器になりたかったんじゃないか」
黒い服の男が地下への扉に視線を移す。
「そしてあの部屋で、引田君とともに静かに眠ることを……」
冷気。秒針のリズム。くすんだ天井。
壁の地図の赤。灰皿の中の灰。
まがった月。
切り抜かれた夕刊。
警笛。
足音。
ガスタンク。
足音。
「死には(まるで絵画のように)複数の意味がある。死者はいくつもの名で呼ばれ、すべて返事をかえさない。彼の死はすでに彼のものではなかった。彼はすべ てを紛失し死だけを残す。明け方の海、雨雲が日の出を遅らせ彼に必要な体温はすでにもどらない。土や水と同じつめたさになること、それが死だ。機械に生ま れるべきだった、機械ならつねに単数の時間を反復するだけ。死者は壊れた機械ほどにも無意味にはならない。何も見ない両眼は、覗き穴として我々を誘惑す る。暗い空洞を覗かせる窓にまぶたを下ろし、目の届かない深さに埋めてしまうしか、我々があの複数の迷路を避けて通るすべはない。バクテリアと蛆が蹂躙す る空洞で、謎が謎のまま崩壊する時間を無視するために。死者はいつも他人だった。死はひそかに孤立する、それは誰にも所有されない、ただ死だけが我々を一 人ずつ順番に手に入れるだろう……」
テープが終わり、雨のようなノイズが流れる数分。
からっぽの棺桶一杯に詰め込まれたヘコキババグサの香り。
その一本一本に、びっしりと小さな虫がたかって泡粒のように蠢いている。
穴ぼこだらけの青い葉が歩き回る虫の重さでしきりに揺れる。
棺桶の中で波打つ白い花びら。
その下から静かに浮かび上がるように響く咳。
虫食いの葉音がざわつく。
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