小説(ショートストーリー)

U子の場合

    誕生日に連れて行ってもらうつもりだったのが江ノ島だった。
ところが今年は誕生日が来なかった。わたしは二月二十九日生まれだから、オリンピックの年しか誕生日がない。
そう言うとみんな笑うけれど、本当にないのだ。前日とか、翌日に祝うなんて気のきいたことうちではしない。貧乏だから。
今年はうるう年だと思い込んでいたら違っていた。一年はやかったらしい。
カレンダーをじっと見ていたらそのことに急に気づいてしまった。
おかげで江ノ島行きをせがむ口実がなくなった。これだからいやだ、貧乏な家庭は。


今夜遅くうちのロボットが撃たれて帰って来た。
(さいきんこういう事件って多い)
ママは憤慨してお友達と長電話をはじめたけれど、わたしはロボットには悪いけど、これはチャンスだぞ!とこっそり思っていた。
そして部屋から出てこないほうのお姉さんに頼んで、撃たれた腹にパノラマをつくってもらった。
(部屋から出てくるほうのお姉さんは不器用だから頼めない)
ロボットの腹にあいた穴を覗くと、百八十度立体的な江ノ島の景色が見られるのだ。


お姉さんは江ノ島に行ったことがある。
だからたくさん写真をもっていて、いつも少しだけ見せてくれる。
アルバムをまず自分だけ覗いて「これは見せてもいい写真」と言ってから開く。
見せてはいけない写真、にはどんなことが写っているのだろう。
そう思うとドキドキしながらわたしは写真を見た。


ロボットのお腹にひろがる江ノ島は、はじめて見る景色だった。
いつもの江ノ島が絵はがきなら、これは映画の一場面みたいだ。
なんだろうあれは。あの遠くにぽつんと浮かんでいるもの。
わたしがそう言って指さしても、お姉さんには見えていない。
「どれのことかな。船じゃないの? 鯨? サーファー?」
ちがうちがう。浮いてるのは海じゃないんだよ。
あの展望台よりずっと高いところに浮かんでる目玉のようなもの。
むこうから同じ景色を覗き込んでいるような、雲のすきまでまばたきをくりかえしているように見える、あれは何。


「なあんだ。それなら目玉なんかじゃないよ」
お姉さんはわたしの頭にやさしく手をのせて言った。
「ロボットの魂。見たことなかったの?」


わたしはそのときはじめて知ったのだ。
機械にも魂があるのだということを。

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続いてない廃墟ブック

 監視カメラに悪態をつく寄り目の乞食を、週末のパーティーで特別上映する貴婦人とその愛猿フィッシュ・ボーボー。わざわざ貧民街に家を建てたのは 不幸な人間生活の鑑賞と、自警を口実にした合法的な殺戮が目的だった。フィッシュのむきだした歯が嘲笑のような表情をつくる。貴婦人の引き締まった尻にし がみついて勃起するオス猿。画面では女乞食が垢まみれの下半身をはだけて放尿している。いばりの先端が邸宅の石垣にふれた途端、頓狂な警報音とともに巨大 なロボット・アームが降ってきて女乞食を拉致。暴れる女はちょうど檻のように閉じられたアームの中で垢と尿にまみれた下半身をばたつかせ抵抗する。だが容 赦のない機械は女を塀の内側へ有無を言わさず運搬。カメラは女と檻を追って塀の中へ。たとえ犯罪者でも敷地に招待された人間は清潔であることが求められる ため二つの小型ロボット・アームがホースを握って檻へ突き刺さる。洗剤を含むジェット水流が噴射し女は左右から押し寄せる水圧に棒立ち、そこへ頭上から精 密作業用ロボット・アームが降臨し腐った象の皮膚のような衣服を奪うと裸の女は泡にまみれようやく本来の肌の色を取り戻しかけた。垢を取り除かれた体に急 に羞恥心が芽生えたのか女乞食はしきりと下腹部を隠したがり指の短い手で陰毛のあたりをぎこちなく押さえもう片腕がとりあえず乳を先端だけでも隠そうと貧 しい胸をさぐり水流の止んだ檻の中で水滴をしたたらせる女乞食はおびえた顔を見せている。愛猿フィッシュの奇声。画面ではさらに凄惨な出来事が始まろうと している。この先の古臭い猟奇趣味に目を逸らさずにいられる人物はこの場では、貴婦人のほかにはミイラ伯爵だけだった。
「世界は この血生臭いシーンを、二百インチモニタの中へ追放した。惨劇は何度でも繰り返す。巻き戻され、この時間の幅から外にはみ出すことがない。これは現在に繋 がらないもうひとつの(自立した)過去なのだ」ひからびた唇をわずかに震わせて伯爵は語る。誰の頭にも届かないその声、ミイラが喋る? そんな馬鹿げた話 を信じる者はいない。もし声が聞こえたならそれはきっと空耳だ。自分の頭を疑う必要に迫られる。だから初めから何も聞かなかったことにしておく、それが上 流社会の利口なやり方だった。フィッシュのむき出した歯が示す苛立ち。しだいにそれは人々の間にも広がった。貴婦人は上映するビデオの交換を下男に命じ た。白衣の上下に金色のかつらをかぶった男がうやうやしくビデオ・デッキに近づいてテープを取り出す。
「もう陰気な記録映画なんてうんざり。今夜は踊りたくなるほど楽しいフィクションが必要だわ」客の一人、代議士夫人のガラガラ声が飛ぶ。暗くなったモニタ画面に、熱帯の昆虫並みに毒々しく着飾った酔いどれたちの姿がずらりと浮かび上がる。

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廃墟ブック

「最低の町だろう、住人が認めるんだから遠慮はいらん。最悪だ。まるで自分が死骸に産み落とされた卵みたいに思えてくる。ところで探偵さんは、蝿は 好きか? この町は蝿が多い。喰いかけのフライドチキンでも放置すればすぐに繁殖する。金色のや灰色のが、はちきれそうな腹を光らせて太陽の下を飛び回っ てる。きれいだ。目が回りそうだ。それで仕事の話だが」
 窓のない部屋で和服の男がまくしたてた。金属的な声。訛りの強い日本語。部屋の調度も気の触れたような日本趣味で不自然だった。だが男はきわめて居心地よさそうな構えで、座布団に片膝を立て探偵に笑いかけた。
「本当は今日の天候から始まって、儂の身の上話までゆっくり辿り着きたいが忙しいんでね、そうもいかない。君もこんな土地に長居は無用だろう、早速仕事の話を」
 おい、と隣室に呼びかけて禿頭を中に入れた。大男は壁際にしつらえたビデオ・プロジェクターに光を灯した。現れた映像はすでに当該箇所を呼び出してあるらしく、奇妙に頭の切れた印象から始まった。
  喧噪と光線が撮影者の足元をふらつかせるのか、それとも酩酊者の呂律に合わせたような音楽に体を奪われたのか、フレームはしきりにぐらついた。全裸の男 が、ネジや結線をガジェット風に描かれたペニスを振り回している。馬鹿笑いがかぶさり、画面の外から子供が二人、胸ぐらをつかみあいながら転がり込む。だ が二人とも顔は老人だった。口汚く罵り合う頭が画面から消え、カメラの下から伸び上がったオカマがかつらを取っておどけていると小さくパン、と銃声が響 く。画面にいる何人かが振り返り、少し高い位置にいたピントのあっていない人影が人形のように倒れた。拍手がまばらに聞こえたがすぐに止む。そのあいだ全 裸男のとなりで中年女がずり上がったブラジャーから乳房を取り出したりしまったりを繰り返す。中年女はアイラインの残骸を頬に垂らしている。染みの目立つ 肌に赤味の強い乳首が突き出し、何か大きく口を開いて喋るが聞き取れない。アドバルーンみたいな肥満体の青年が女に抱きついてキスをした。青年の尻に的が 描かれ矢が何本か刺さっている。吹き矢吹きの少女たちが青年を追う。新しい矢が刺さると青年は悲鳴を上げ、肉に隠れ半立ちのペニスから洗濯糊のように射精 する。馬鹿笑いする中年女の口。
「儂の妻だ」
 一時停止させた画面を指さして男が言った。「別れて九年になる。もっとも、二年の別居期間中まったく顔を合わせていないから、十一年間彼女には会っていない。ぜひ会わせてほしい、それが依頼だ」
 男は目に涙を浮かべ、画面を直視するのも耐え難いかのように、探偵に体を向けたままだった。
「これは三年ほど前に撮影された映像だと思う。儂の知る限り、ここに映っている人間で今も生きている奴は一人もいない。じゃあ妻は? 生きていると思う。儂はぜひそうであってほしいと願う。それだけじゃない、妻だけが生き延びていると期待する根拠は」
 男の指がふたたび画面をさした。
「妻 は優秀な二重スパイだった。儂は組織から見捨てられた身だが、妻は違う。あの乱痴気騒ぎは幹部のほかは上位三パーセントの成績を残した人間のみ参加を許さ れる。そして妻は、組織へ送り届ける収穫物にひそかに毒を盛り、あの食えない怪物に栄養と毒素を同時に運ぶ有能な働き蟻を演じ続けた名女優だ。……しかし 奴等の勘も馬鹿にならなかった。しだいに妻の素性に疑いを向け出したらしい。儂は蔭ながら彼女を支援した。彼女が政府筋の情報屋を偽装暗殺したとき、儂は 死体の調達から監察への根回しまで請け負った。その間一度も妻に会うこともなく。だが裏をかかれたのさ、情報屋は本当に殺されていたよ。妻の立場は危うく なった。儂も政府と組織、どちらとも距離を置く必要が出てきた。結果、情報は途絶え連絡手段も失った。組織の粛清は苛烈だ。優秀なスパイは、時とともに自 然と二重スパイ化するものだ。組織は最も信頼してきたはずの十数名をひそかに手放した。その年に最も酷い死に方をした自殺者や事故死者、殺人事件被害者の 中に彼らの名前はある。幸いなことに、妻の年恰好に見合う身元不明遺体は発見されていないのだ」
 ため息に変わる語尾を残して、男は黙り込んだ。
「…… 儂は少し喋りすぎたようだね、探偵さん。言うまでもないことだが、必要な情報だけを持ち歩いてくれ。そしてすべてが終わったらすみやかに捨てるように。そ れが君のためでもある。儂は明日はもうここにはいない。しばらく連絡が途絶えると思うが……こちらから接触するまで、何しろ妻のことをよろしく頼むよ」

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噂は値札のように

 ふわふわした鳥の羽根が集まった真赤な首巻きを、君は血を吐くみたいに背中を丸めてテーブルに置いたのだ。テーブルには他に金色の(でもAuの微 塵も含まれない)腕時計や丸まった靴下なんかが無造作に載っていて、腕時計と靴下のあいだにはホールの八分の七が欠けたケーキ。脱ぎ捨てられたドレスみた いに溶けて垂れ下がる蝋燭が二本。ああ、時間がとまっているのがよくわかるね? 楽しみだったパーティーの時間は、とうに止まってぼくらだけそこから零れ 出して朝陽の下に今はいる。それぞれに、ずいぶんだらしなくなってしまった姿で。

 ゆうべ、窓に額を寄せればまだ星座がたしかめ られた時分、君の扮装といえば「命の危ない夜更けの界隈で、ひときわ殺されそうにしている商売女」と君自身明かしたテーマにふさわしい効果を、十分発揮し ていたといえるだろう。友だちのある者はあからさまに嫌悪の表情を打ち出し、ある者は頬を染めて俯いたきりだったのだ。「馬鹿な女。下着じゃないの?」な んて耳うちしてくる酒臭い息にぼくは軽蔑の微笑を無言でくれてやり、それから君を取り囲みつつある目敏い一団の端に加わったのだ。

  もちろん連中にしたって、ただ君を極端に警戒したり倫理的に拒まないばかりで、相応に下衆なやからであるのはいうまでもない。当人の耳に入らない距離をた しかめたうえで、あんなお姉さんのいる子はさすがちがうね、なんて見当違いの賞賛をしたり顔で口にしていた者がいる。もちろん君に姉さんなどいないこと、 夕暮れに操車場近くの切り通しを並んで下る姿をよく見かけられる、あの真っ赤な首巻きの似合う女性が君のママだということをぼくは知っている。何しろぼく は二人のあいだに右上がりのグラフのように腰掛けて、日曜の車窓に水平線を眺めたことさえ何度もあったのだから。

 あれから何年 もが経ち、かつてぼくに眩しく予感させたとおりの人に君はなったのかもしれない。手鏡の憂いから切り抜いてきた微笑を手放さなくなった君と、交せる言葉は 日ごとに減っていったのだ。ゆうべは誰かの肩越しに「おめでとう」を云うのがせいぜいだった始末の、この残酷な距離がまた、朝陽に撫でられたまぶたの裏で は痛感される!

 目をあけば散らかった皿のひとつひとつが視線の通り道に敷きつめられ、その先にとぐろを巻いた真っ赤な首巻きの 傍らに君はとうにいはしない。額縁のように口をあけた戸口のひとつで、眠たそうに肩を抱かれている君を見つけるのは難しくないのだ。ママみたいに絶対、な りたくないのと呪文みたいに唱えつづけた子供が、あんな衣装の誰より(ママ以上に)ふさわしい人になりつつあるこの発見はそう古いものじゃない。海のきわ に太陽が滲み出しつつある時分、寝息をかさねる母子に挟まれながらまるでぼくはこの家の子供みたいだな、と照れ臭くてまた寝たふりにもどった、あの各駅停 車の床のゆるやかな傾きのこともぼくはこんなにすっかり憶えている。目に浮かぶのだ。

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ガスタンク

「マギーか?」
 ペキンは玄関まで届く頓狂な(それは彼の特徴だ)声をあげた。
「いや、マギーは死んだ」
 ドア向こうで抑揚のない声がぽつりと答えた。
「何を云ってるんだ?」
「無残に散らばって、骨の一本さえ残らない有り様だった」
 しばらく沈黙ののち、突然立ち上がったペキンは覗き窓から外を見る。
 喪服のように黒ずくめの男が一人。
「公害研究所の生き残りは、これで俺達だけだ。何度でも云う、復讐だよ。もう『運動』の理念なんてものは糞の役にも立たない。便所紙のかわりに、必要なのはナイフだ。銃だ」
 ズカズカと上がり込んだ男は、言葉の激しさと裏腹にきわめて冷静な口調でつぶやいた。
「マギーに食わせるはずだった、自家製のヘコキババグサを摘んできた」
 テーブルに投げ出された篭。甘い花の香りが、墓前のようにひろがる。
 皿を並べながらペキンは嘆いた。
「すべては俺の油断……致命的な判断ミスだ。奴らを甘く見ていた。俺が死ぬべきだったのだ。よりによってマギーみたいな奴が……」
 言葉にならない部分を、ペキンの喉がこわれたブレーキみたいな嗚咽に変えた。

 夜が地底のように暗く更けていく。
 生き残った二人は、物静かな晩餐を終えたあと、食卓に立てかけてあったマギーの写真を燃やした。
「骨の焼ける臭いだ」
 黒服の男が窓を開けた。
 手の届きそうな距離にガスタンクの影が並ぶ。膨れ上がった蛙の腹のように、月夜にそれは無防備にさらされて憂鬱を誘う。彼らがまだ若かった頃、あの球体 の頂上で『運動』に命を捧げた男の最期を見た。燃えながら落下してくる活動家を、吹き上げる水の柱が何度もガスタンクに叩きつけ、活動家は炭になる前に頚 骨をへし折られて死んだのだ。
 マギーもあの光景を見ていた。熱病のように唇を震わせて。
「あれが原点だった。俺たちはあの男の姿に、犠牲の美学と熱情とを学んだ。マギーは誰よりも『運動』の原点を守り抜いた男だ。彼を失った今、何かが決定的に壊れて修復不能になったことを、俺は認めざるを得ない」
 ペキンの声にもう嘆きの響きはなかった。機械の声のように感情が抜け落ちていた。
「あいつは本当は陶芸家になるはずだった。この花瓶もマギーが焼いた物だ」
「それは初耳だな」
 黒服の男が立ち上がり、殺風景な部屋に場違いな、高貴な貝殻のような花瓶を手に取った。
「たしかにいい出来だ。ほかにもあるのか?」
「ああ」
 そう云ってペキンは部屋の隅から、地下室への階段を静かに下る。
「ここにあるのは全部、マギーの作品だ」
「これは……単なる陶芸家のこしらえた物とは思えないな」
 薄暗がりの中で、黒服の男は腕組みした。
「まるでカタコンブに迷いこんだみたいだ。屍臭がしないのが不思議だ」
「美しいだろう?」
 ペキンはひとつを手に取って、天井の白熱灯にかざす。それは女の左手だった。乳白色の皮膚を持ち、痙攣を思わせる表情に凍りついた手首。だが触れた感触そして重みは、それが床に落とされた瞬間砕け散る繊細な陶器であることを伝えている。
 黒い服の男は、恐る恐る棚に飾られた顔――死体から剥がされたような――に手を伸ばす。だが表面を指紋で汚すことを想像して躊躇する。
「何で今まで隠してた」
「マギーの意志だ。これを見た人間は何て云う? 『運動』なんてやめて作品をつくれ。芸術家になるべきだ。そうだろう? マギーはそれを恐れていた」
「馬鹿な男だ」
 狭い室内のぐるりを女の足首、女の尻、女の眼球、女の骨……それは異常者の冷凍室のように、いくつもの生命を犠牲にしたコレクションのように美しい。
「出よう、なんだか目眩がしてきた」
 テーブルを挟んだ二人の無言。
 灰皿の中の灰。壁の地図の赤。くすんだ天井。秒針のリズム。冷気。
「モデルがいたんじゃないか?」
 黒い服の男が口をひらく。ペキンは答えない。
「死人が必要だったはずだ。どうなんだ?」
「やめよう、マギーが死んだ夜だ」
「引田君が死んだのも、こんな夜だったな」
 ペキンの顔から色が消える。かまわず黒い服の男は続けた。
「彼女は企業側のスパイだった。そういう報告だ。そして逃亡中に事故で死んだと。だが新聞には何ひとつ載らなかった。公安の隠蔽だ、というのが君の主張 だったね? だがこうも考えられる。警察は死体を見ていない。なぜなら、死体は放置もされなければ、どこかに埋められたわけでもない。ある人物に引き取ら れた。何のために? 芸術のため……」
「マギーは死んだ」
 ペキンの唇は動いたように見えなかった。が、言葉は銃声のように響いた。
「運動は彼を殺した。そして、引田君もだ。我々は生き残ってここにいる。間違ってるのはこっちの方だ。我々はうす汚れた卑怯者だ。死んだ人間はきれいだろう? すべてを捨てていくのさ、罪も栄光も」
「彼も陶器になりたかったんじゃないか」
 黒い服の男が地下への扉に視線を移す。
「そしてあの部屋で、引田君とともに静かに眠ることを……」
 冷気。秒針のリズム。くすんだ天井。
 壁の地図の赤。灰皿の中の灰。
 まがった月。
 切り抜かれた夕刊。
 警笛。
 足音。
 ガスタンク。
 足音。

「死には(まるで絵画のように)複数の意味がある。死者はいくつもの名で呼ばれ、すべて返事をかえさない。彼の死はすでに彼のものではなかった。彼はすべ てを紛失し死だけを残す。明け方の海、雨雲が日の出を遅らせ彼に必要な体温はすでにもどらない。土や水と同じつめたさになること、それが死だ。機械に生ま れるべきだった、機械ならつねに単数の時間を反復するだけ。死者は壊れた機械ほどにも無意味にはならない。何も見ない両眼は、覗き穴として我々を誘惑す る。暗い空洞を覗かせる窓にまぶたを下ろし、目の届かない深さに埋めてしまうしか、我々があの複数の迷路を避けて通るすべはない。バクテリアと蛆が蹂躙す る空洞で、謎が謎のまま崩壊する時間を無視するために。死者はいつも他人だった。死はひそかに孤立する、それは誰にも所有されない、ただ死だけが我々を一 人ずつ順番に手に入れるだろう……」

 テープが終わり、雨のようなノイズが流れる数分。
 からっぽの棺桶一杯に詰め込まれたヘコキババグサの香り。
 その一本一本に、びっしりと小さな虫がたかって泡粒のように蠢いている。
 穴ぼこだらけの青い葉が歩き回る虫の重さでしきりに揺れる。
 棺桶の中で波打つ白い花びら。
 その下から静かに浮かび上がるように響く咳。
 虫食いの葉音がざわつく。

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雨で血が止まらない

 新しい世界が始まった。目を開くと太陽が眩しい。耳には子供たちのはしゃぎ声。鼻にはバラの香り。そして夏の午後は涼しげな風が、冬の夕べには優しい火の温もりが。
 私は夢のように高揚した気分で家を出た。新品のサンダルの立てる足音が、目の前にひろがる風景に句読点を打っていく。まるで書かれたばかりの小説を読む ように、私は散歩を楽しんだ。道はくねくねと予想できない方向へ曲がり、スリルが生まれる。まったく先が読めない。今ほんの鼻先に現れた郵便局が、気がつ けば遠い丘の上にシルエットを見せる。いい匂いのする街路樹を抜けると、見事な滝の落下する崖へ。そして隣町やその隣町まで続く広大な地図のようなパノラ マ。私はひとまずここに座り込んで、友人に手紙を書こうと思った。
「前略 今君がどこにいるか、ぼくの知ったことじゃない。たとえ地獄や刑務所であろうと、同じだ。それより聞いてほしい。ぼくの素晴らしい生活のことを。 ひとつはドクロ吉田というプロレスラーについてだが、彼の栓抜き式ヘッド・ロックが正真正銘の必殺技だったという驚き。彼はこの悪い冗談で、本当に一人の レスラーの頭蓋骨を破裂させてしまった。脳味噌の飛び散る瞬間がテレビで生中継され、社会問題になった。最悪だ。死んだハンマー杉田には気の毒だが。それ からもうひとつ。近所に目を見張るようなコンビニを発見した。店を入ると左手にレジがある。だが店員の姿はなく、かわりに七面 鳥と孔雀が歩き回っている。手前の棚は普通のコンビニだが、奥に行くとパンダを殺すための薬品や、指紋で石油を掘る機械、美女の写 真、ニセ札などが売られている。ぼくは大喜びで翌日も出かけたが、すでに潰れていた。君が昔住んでいたアパートの近所にも、似たような店があったね。もっ ともあれは床屋だったけれど」
 手紙を投函しようとして私はようやく気づく。郵便局は丘の上だ。引き返すのは面 倒に思える。それに今日は妻の命日だから、夜になれば亡霊が現れるはずだった。年々ひどい姿に変わっていく妻は、枕元でぶつぶつ聞き取れない言葉を高圧的 につぶやくだろう……。腐った皮膚から枯れ草のように抜けた髪の毛が、顔のうえに落ちてきて私は身動きできない。もうじき日は沈む薄暗がりの静寂。死者を 悼む笛のような汽笛。私は憂鬱になっていた。そんなじめついたすべては暗い過去のほうからやってくるのだ。風に混じる土の匂い。いつのまにか雨が降り出し て私は濡れている。死人の手のように冷たい髪の毛が額に垂れ下がる。
 私はポケットから鍵を取り出した。人肉で出来ているとしか思えない、生温かい鍵だった。おもむろに作業ズボンを膝まで下げると、私は本来なら性器のある べき部分にぽっかりあいた鍵穴にそれを慎重に差し込む。鍵が底をつきとめたところで、たしかな手ごたえとともに右へ回転。すると目前の景色が同時に右へぐ るりと移動し、まったく異なる風景がたちまち左方向から入れ替わりに出現する。まるで年号が変わる瞬間のように劇的に。にわかに遠ざかる雨音。つぶやくよ うな雨音……
「新しい世界が始まった。目を開くと太陽が眩しい」

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Dr.STRANGELIMB【い】虐殺保安官

 破壊された商店街を西に歩く男がいた。
 うすい煙が瓦礫のあいだをゆらゆら上り、焼き場のような臭気が時おり鼻をつく。
 崩れたアーケード屋根に「駐車禁止」の標識が突き刺さり、略奪後の宝石店みたいにガラスが全滅した肉屋が、老主人の肉塊を店頭に放置してぐずぐずに腐らせている。ひどい匂いだ。
「レントゲン砲をモロに食らったみたいだ。顔がないな、前半分をごっそり持っていかれてる」
 男は現場検証の刑事みたいな独り言をつぶやきながら死体をまたぎこした。
「さすがにロボットのやり口は違う、正確で冷淡だ、食品工場並みだ」
 宇宙からの催眠音波は一晩中降り続け、町で今正気を保ち事態をまともに把握している人間は誰もいない、はずだった。だが男は、幼児期に両親から受けた虐待により脳の一部を破壊され、治療でインド象の脳を部分移植された経験が幸いしたらしい。
 この町でたった一人の理性は、西に向かっていた。
 目つきのおかしい女が路地からふらついて出てきた。アスファルトのひびに足をとられてよろめく。まくれ上がったスカートの下は裸の尻で、大便がエクレア のように一面へばりついている。薄い胸をかきむしりながら何か云いかけるが、言葉にならないらしい。よだれが水飴みたいに粘っこく糸を引いて顎から垂れさ がった。
 典型的な催眠患者だ、男は女の赤い頭を軽く蹴とばして路地に追いやった。
 尻もちついた女のまわりに見る見る水たまりがひろがる。
「発電所の自動運転はいつまで続くのだろう? 持って三日というところか。この町が本当に死に始めるのはそれからだ。まるで葬送の音楽のように、ゆっくり破滅が蔓延する。しかしそれを悲しむ能力のある奴は残されていない、看取る者のない臨終だ」

 男はプロレスラーとしてはさっぱり大成せず中年を迎えていた。肉体の衰えは彼を観光マッチの悪役スターの座からも引きずり落とした。
 ある晩、いつものように鞄ひとつ提げて通用口をくぐった彼にプロモーターはこう声をかけたのだ。
「エディ、今日は君が改心する記念すべき夜になる。お客は新たなヒーローの誕生に酔いしれるだろう」
 それは男にとって死刑宣告に等しい言葉。手に負えない悪党が正義の軍門に下り、しばらく従順な下僕として働いたのちにフェイド・アウト……それがこのアル中の田舎座長が使い回すお決まりのシナリオだ。
 とうとう自分の番が回ってきた……男は目の前が暗くなるのを感じた。
 与えられた仕事を大人しくこなせば、それでも半年は食いっぱぐれないはずだった。
 だが自暴自棄になった男はその日、ひなびた観光地の英雄相手に唐突にセメント・マッチを仕掛ける。
 必死で目で訴える若造を、鼻が曲がるほど殴りつけ血だるまにしたうえ、失神した相手に馬乗りになってパンツを膝まで脱がした。
「こいつはとんだホモ野郎でプロモーターとできてる」「リングじゃこの通り最悪の実力だが、穴の締まりはスッポン並みだ」そうわめいてリングを下りた。
 通路を引き上げるとき売店で売ってるアップルパイが二、三個背中に飛んできた。そのまま会場を飛び出てタクシーを拾う。突然裸の大男に乗り込まれた白髪の運転手は、冷めた小龍包みたいに顔をこわばらせていた。
 男はまず顔なじみの娼婦に金を借りようとアパートのドアを叩いたが不在。しかたなく別れた妻を訪ね、いくらかの金と上着を借りて聞くに耐えない罵詈を背中に浴びながら車に戻った。
「旦那、女どもの口はベッドでふさぐしか方法はない……て昔からね」
 ようやく運転手が声をかけてきたが、男は無視して皺だらけの札をかぞえはじめた。

 老人としみったれた商店主ばかりの赤ら顔の一団相手に、旧時代のギャング風に見得をきる権利さえ奪われた男は途方に暮れた。
 リングに立てない彼はただのでくのぼうでしかない。生まれてからまともに働いた経験はないし、若い頃短期間ではあるが、盛り場の用心棒で酒代を稼いだのが唯一の仕事らしい仕事だ。とりあえず旧知の賭博屋を何人か訪ね回ったところ、
「もう人間の仕事じゃないんだよエディ」
 そんな返事がかえってくるばかりだった。
「たしかに、人間の出る幕じゃない。これならイカサマ野郎のはらわたも三十秒で蒸発だろう」
 男は歩道に散らかった人間の残骸をつま先で転がした。肋骨の内側が見事にえぐりとられ、盗まれたように何もない。ライオンが食べ残しの獲物を放置したみたいに無造作、そんな死骸が電柱よりも頻繁に目につく。覗き込むと顔に熱気を感じた。
「まだ遠くないな」
 耳をすませれば、何も聞こえない。だが確実に足の裏につたわる断続的な振動。爆撃のような足音で今1キロ四方にあの発狂した機械が、酔客の足取りで物理学の死神が、不格好な殺戮のダンスを踊る。その気配を感じたとき、はじめて男の心に恐怖が芽生えた。
 だが男は西へ向かう歩みを変えない。たった今蹴とばした死骸は一週間前、リングで不様に失神した若造だった。田舎町のささやかな歴史は終わった。男は帰 るべき場所も、唾を吐くべき地面も残されていないのを知っていた。懐かしがるものさえ何もない。すべては紙切れのように空しい。
 “虐殺保安官”ピーター・モルガン。必殺技ネック・ハンギング・ツリー。

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Dr.STRANGELIMB【あ】博士の変な手足

 今夜もロボットがひたひた歩いてきた。発狂した電子頭脳が迷子のようにぼくをさがすあの気配。薄暗い宇宙空間にぼくときみのアルバムいっぱいの思い出ひ ろがる深更を、銀色のシェルターみたいなデカ足で蹂躙する一つ目の巨人……殺人ビームで二万人殺しの死刑囚サウスポー・ジャック。あいつに人並みの理性や 知能を期待するだけ無駄だ。あらゆる生身の苦痛や懊悩を白目しかない赤外線アイは理解しない。見つめるのは虚無。踏み潰す人間の情報すべてをデータ・ベー ス化するあいつはすぐれたマーケティング屋だった。それがあの日からあんなことに……。
 手足に進化の徴候があるとして博士はまるで英雄扱いだった。ぼくらの栄養不良な間伐材みたいな四肢とくらべて新時代的デザイン、博士は代々博士の家で富と技術を惜しみなく注ぎ込まれた「嫡子にして作品」だ。
「ママが優しく遺伝子撫でてくれた。パパのつくる化学スープは骨まで滲みたね」
 生まれながらの半機械生命。しかしアンドロイド呼ばわりが死ぬほど嫌い。
「私はいつか立候補したいが今の法律じゃ機械は無理でね」
 夏の午後アルバイト帰りにぼくはきみに出会ったあの日。下水溝に轢き逃げされた小人みたいな目でぼくを見ていたあの顔。拾い上げた手のうえで笑った仮面みたいな女の子それが最初だった。
「誰かに似てるね、気のせい?」
 肺も喉も持たない薄い君はただ笑うだけ。
「気味が悪いわ明日のゴミに混ぜちゃいなさい勉強に差し支えるわ」母が顔を曇らせ重苦しい空気の食卓。「そんな怪我でまだ生きてるの? だからロボットなんて本当に怖い」
 口の中に製造番号。これは博士の初期デザインでぼくはマリーと名づけた。
 マリーを手に取りそっと顔にあてがってみる。鏡の中のぼくはマリー。マリーはぼく。

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未明

 列車は夜にさしかかり、次の駅はテラノミチですと告げられ妻は顔を曇らせた。窓は疲れた顔の夫婦を映しそのむこうに田圃がひろがりそのむこうは闇。時お り近くの座席で中年女らしい独り言がきこえるほかは人の気配がなく、それでいて座席はほぼ満席だ。テラノミチには知り合いがいるわ、と妻は窓の向こうの私 に言う。暗い景色の流れに浮かぶ私の顔はうつろな目を上げてこちらを見るのだが、言葉を返す様子はなく、闇の濃い田園の果 てのほうに気がいっているようだ。ここから見える視界の限界あたりの場所で、今何が起きているのか、永久に知らぬ まま列車は夜を走り続けている。手に負えない推移の連続的な眩暈は、闇に隠されてただ気配としてだけつながっていて、背筋をつたわり気が遠くなりかける。 そこへ車輌のドアの開く音がグシャッ、と響き、明るい車内の映像に焦点が結ばれると、小肥りな車掌が近づいてきて、妻の名前を呼んでいる。妻は自分の鞄を 手に持って立ち上がると、車掌のあとを消えた。立ち上がるとき妻は、窓の中で私と目が合ったのかもしれない。明日の午前四時頃、列車は故郷の町を通 過する。なだらかに広がる斜面と蛇行する川があの町だ、そのとき妻はどんな感想を口にするだろう。夜の窓に映る顔は病人のようだ。列車の揺れがだんだんと 心地よく瞼に響き、遠くから踏切の音が、たちまち近づいてまた遠ざかるのを聞いたあたりで、どうやら眠ってしまったらしい。ふと、水底から浮き上がるよう にして気がつくと、車内の顔ぶれが少し替わっていて、いくつか話し声が聞こえ、空と町の接するあたりが薄明るくなりかけている。夢を見た気がするのだが、 思い出そうとしても子供のときに見たサーカスの夢にすりかわってしまい、それは目の前を行き来する空中ブランコにいつまでも跳び移れず、うしろには次の乗 り手がずらりと並んで順番を待っている。そんな夢だ。そのむこうにぼんやりかすんでしまった夢のことを思うと、胸騒ぎがする。時計を見ると四時半を回って いた。妻は、と気づいて見ると隣は空席のままで、しばらく待ったが踏切を二つ過ぎたところで車掌が通 りかかったので、私は呼びとめた。妻はどこへと訊くと車掌は首をかしげた。故郷の町の名を告げ、もうそこは通 り過ぎてしまったかと問えば、いいえ先ほど人身事故があった関係で、列車は予定より大幅に遅れております。事故後の処理に、とても時間がかかってしまいま した。あんな時間に飛び込みなんて、とても珍しいことなのです。まだ若い女性だったようです。不幸なことです。しかもあんな田圃の真ん中の、さびしい踏切 だったというのに。私は、その残酷な光景をまざまざと見たように感じながら、それでもテラノミチはとっくに過ぎただろう、じゃあ妻は、君に連れていかれた あと、テラノミチで降りてしまったのかも知れない。妻は、知り合いがいると言っていた、あのテラノミチの駅で。きっとそうだ妻は、あの窓の外に続いていた 闇の中の、おそらくそこで妻を待っている誰かのところへ、私は、それにはちっとも気づかず、ここにこうして置きざりにされて。と、ぐったり途方に暮れる私 に、すると車掌は、冷たく首を横に振ってみせた。いいえお客さんテラノミチなんて駅はありません。奥様をお連れしたというのも何かの間違いでしょう。それ にお客さんは、最初からずっとお一人で、そこに座っておられたのではないですか? お隣りは、はじめから空席ではありませんでしたか? 列車は間もなく ○○に着きます、そうして車掌は固い笑みを残して、ふらりと後ろ姿を向けて車輌を出てゆく。その背中に向かって私は、音をたてて閉じるドアに向かって私 は、身を精一杯乗りだして、いや私は妻と二人でこの列車に乗っていたし、この窓に二人の顔が映っていたし、テラノミチへ引き返す列車には、どこから乗れば いい? たしかに妻は、テラノミチには知り合いがいると言い、そして妻は、愛する妻は、私のとなりにいて、暗い窓の向こうに並んで座っていた妻は。

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外套のからっぽな博士

 あいつのことだ。あいつを覚えているか? メガネのむこうに何もない奴……
 今夜あいつがやってくる。十年前と同じ名前。同じ姿で。人形みたいに震えた足どり、虫歯だらけの口を笑わせて。

 終電車が団地裏にジッと影を滑らせて、踏切の点滅がすべて終わる。
 これからだ! 死んでいるのに歩く男。この暗黒があいつの時間だ。錆びた時計は零時に蠢き、あいつは何度でも目を覚ます。ひどい悪夢にうなされながら、首と手足が魚みたいにピクピク痙攣しながら立ち上がったあいつ、なんて痛ましいあいつの影……

 あいつは自殺するたび強くなる。あいつが怖い。眠れない。
 あいつは幽霊なんかじゃない、現実だ!
 イヤな目でこっちを見てる。
 あいつの頭の中は薄暗い廃屋。
 あいつの口からもれるのは墓場の静寂。
 誰もいないあいつの世界。
 いつかあいつに殺される。あいつの世界に呼び出される。
 どうしよう、逃げればいいのか、どこへ?
 あいつのいない場所へ。そんな場所があるのか? ない。
 逃げ道ない。希望がない。この世はすべてあいつの目の前。
 腐った学生服と雑草みたいな髪の毛が、ゆらゆら坂道をのぼってくる。
 卒業アルバムにも載っていない、あいつの名前。
 誰もが忘れたいのに、忘れられない足音が帰ってきた!

          *

 ぼくはとうとう生きているのがダメになり、屋上の柵の外へ立ってみたんですけど、ぼくはあんまり高くて恐ろしいので、もらしたおしっこがズボンの中でさ らさら流れて、つま先のずっと下で小さな頭がグラウンドのすみっ子でおしゃべりしてた、女の子のあたまにぽたぽた垂れて「雨!」って、その子が上を見てぼ くと目があった。恥ずかしい! おしっこしてるところ見られた! ……気がつくとぼくは地面 に顔をつけて笑っていました。

 おかしくないのに口がひらいて、ほっぺたがひきつって動かないのでぼくは笑っている。笑い声のかわりに血がたくさん出て、ぼくは女の子に「あれは雨じゃ ないよ、おしっこだよ!」と云おうとしたけれど、うがいみたいにブクブクいっただけで、すぐに息も出なくなった。
 たいへんだ! 息をしないと死んでしまう! でもちっとも肺がぴくりとも動かず、ぼくは自分から流れた水たまりのうえで顔も知らない先生や、校長先生の 見たこともない青い顔を横目に見るうちに気が遠くなり、サイレンが聞こえてるなあ、怖い、怖い、と思ったらそこは何だか救急車のなかでした。

 でも、むりやり酸素を押し込んでくる機械や、無線のあわただしい声よりも、車の外で道路わきのドブ板のうえを黒い外套が雨雲みたいにすーっと通るのが、墜落ショックで薮睨みになったぼくの目玉にはよく見える……黒い外套の背の高いおじさん。おじさんが名前を呼ぶので、ぼくは車から降りて目の前のどぶに入り、くさい水の底へゆらゆらと沈んでいきました。
 ボロボロに折れた手足が勝手に泳いでくれる、ぼくはカナヅチなのに! あの真っ暗な虫の死骸でできたビルの屋上まで、ぼくらは無事に沈んでいきました。 「未確認世界研究所」の看板が目に入るまで、おじさんがどこかの博士だということをぼくはまるでしらなかった。

「それじゃ博士、ぼくはやっぱり死にましたか」
「気にすることはないね、少年。死人が生き返った先例は数え切れないのだから」
「博士、ぼくは息ができないので、喋れません。これじゃあぶたれても『ヤメテー』っていえないです」
「一度死人になった人間を、殴るような度胸の持ち主は珍しいのだが」
「それじゃあ博士、ぼくは明日も学校へ行けるのですか?」
「明日だけでなく、このまま永久に中学一年生だろう」
「なんだか目の前が暗いのです。まるで眠っているみたいに、ぼくのまわりが薄暗くてつめたい、博士の顔はよく見ると外の工場の煙が揺れてそう見えただけ で、博士の声も、遠くで犬が遠吠えする声がそう聞こえただけかもしれない。だからほんとうはぼくはまだ救急車の中で、赤信号をいくつも振り切って走る、白 い車体の中で、忙しく動き回る影に囲まれて、著しく形の崩れた子供がひとり、手遅れの処置を施されながら少しずつバクテリアの餌食にされている。折れた首 はともすれば車の振動に合わせて捻れ、ありえない方向を振り返り、白目をむいて誰にでも陽気な挨拶を送る、こんばんは、こんばんは、ぼくがあなたの地獄で す。こんばんは、もしも写 真に余分に写っていたらそれはぼくの手、握手をしよう、この手と、こんばんは、屋上の、柵の外でぼくと握手、昭和六十三年九月九日、午後三時四十四分、も うじき西瓜みたいに頭のかち割れるぼくと、きみと握手」

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