現場
その男は顔半分が遊園地だった。
「入場料はいくら?」
と訊ねると
「まだ工事中なんですよ」
そう云って男は指の先まで真っ赤になった。
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齋藤くん、きみがくだものだったらよかったのに。きみがくだものなら私はよろこんで皮をむくよ、このナイフで。きみの頭をかかえこんでするする
と、ナイフの下をすべらせていくと、太陽のひかりが透けるほどうすく剥けた齋藤くんの皮が私のひざのうえに包帯のように垂れてとぐろをまいてゆくよ。
私は、こんなに白いスカートをはいているから、齋藤くんの皮のうらがわの、薄いピンク色がひざのうえできっとリボンのように引き立つはず。私は、きみへの
プレゼントになったような気分を味わうよ。きみがくだもので、くだものが大好きな私はきみをナイフで剥いていく。すると君を剥いている私が大好きなきみへ
のプレゼントにだんだんなっていく。なんて完結して、出口のないきれいなしくみなんでしょう。私はくだものが本当に大好き。たとえどんなくだものであって
も。酸っぱくても、苦くても、かまわない。
だけどきみはくだものなんかじゃない。だから私は齋藤くんのことが本当はだいきらい。私がきみにしてあげられるのは、もしきみがくだものだったら…と心の中で想像してあげることだけです。
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スクールバスから降りてきたのは全員頭部が火の玉になった生徒たちで、あたりの気温がそのせいでにわかに上昇する。窓から覗き込むとバスの天井が煤
けて黒い。頭が火の玉になった子供は顔の見分けがつかないので、迎えに来た親たちは着ている服で我が子を判断する。だが学校では今生徒どうしで服の交換が
流行っていたし、ぼんやりした子の親はたいていぼんやりしている事情もある。だから誤ってよその子を連れ帰るケースが続出。夜もふけてからこっそり正しい
組み合わせに戻しあう親たち。
私はガールフレンドを爆破しに出かけた。家を出ると断崖のように階段がそびえ立ち、これを登りき
らなければどこへも行けない。半分くらい登ったところで遠くに海が見えた。座礁した船の船員が海鳥に襲われながら手を振っている。私は手を振りかえした
が、彼らからこちらが見えているかは分からない。なぜなら私は、階段の色とよく似た色のシャツを着ていたのと、海鳥の攻撃はまっさきに人間の目を狙うから
だ。
だが今はガールフレンドの爆破についてのみ考えるべきであろう。階段はなお尽きなかった。ガールフレンドは昏々と眠っている。目を覚ます前に爆破するのだ。粉々に。
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探偵は金色の顔を、箱の蓋をずらした隙間から半分のぞかせた。探偵はつねに箱詰めされている。そして組み立てられることがない。だから探偵の金色の顔は、机上から未だ離れ離れの手足や胴の詰まった段ボール(未開封)のちらばる床を、眺めるたびやや青ざめて見えた。
助手は? 働き者であるはずの助手もまた、未開封の箱で雑然と積まれている。こちらはまだ醒める気配すらない。荷解きの済まぬ事務所に足を踏み入れた依頼
者は、探偵史上に類を見ない<組立式探偵>の推理術の恐怖に触れる機会をみすみす逃し「住所あってるよねえ?」などとつぶやきながらまた出て行く。薄暗い
巷へ。引き止めろ、黄金探偵。
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プールに水をためているあいだどうしてたかというと、読書です。図書館で本を読んでいたのです。夏休みのプール係だった私は同じく係の山際くん
と、図書館へいった。冷房があまり効いていないのは、エネルギーを、節約するためなのです。私は雑誌コーナーで「歌劇」を読みます。山際くんは、気がつく
といなくなっていた。
私は「歌劇」をラックに戻して階段をのぼっていく。二階の閲覧室に山際くんはいて、がらんと空いた室内で
わざわざ日のあたる窓際にぽつんとすわっています。私は、そっと近づいて、うしろから肩に手を置きました。山際くんはびくっとからだを反らせると、あわて
て本のページをとじた。
「山際くん変! いやらしい本かくすみたい!」
真っ赤になった山際くんは言い訳するみたいに本を私にさしだすと
「感動するよ。きみも読むといい。じゃ!」
走ってその場から消えてしまいました。
何なの山際くん。
私の手の上に残ったのは、ヒトラーという男の人の伝記でした。
なんでわたしがこんなの読むの。ヒゲがちょっと校長先生に似ていた。
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迷路はひろがり続けた。一国の領土をこえて拡大した迷路は他国のそれとつながり、国を飲み込んで巨大化しながらやがて大地を覆い尽くす。さらに海
底を這いずるようにひろがったすえ地表を征服したのちは地底を掘り進め、虫が林檎を食い荒らすように惑星の内側深くまでが残らず迷路に蝕まれた。
今この一個の迷路はあらたなフロンティアを求めてうずうずしている。間近をかすめる彗星などあればたちまち餌食となるだろう。
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仕事もないのにこんないい天気だ。
いい天気だからって、どこに出かけるにも金はいるのだ。
たとえ金はいらなくても気力が少しいる。
金がないので気力が出ない私は、このいい天気を、カーテンで半分隠れた網戸の窓越しに寝たまま見あげる。
ひこうき雲が使用後の傘カバーみたいによれていくのを。
やがてとなりの家のアンテナの先っぽにひっかかるのを。
誰かがテレビを見てたら、ものすごい障害が発生してるだろうに。
留守で残念。
臨時ニュースの数々で、番組は付箋のびっしりついた本みたいになってるのに。
うちのテレビは何も起きなかった。
うちのテレビは選挙の話でもちきりだ。
ゆうべ誰か(顔も知らない。窓をノックした手だけ見えた)に選挙権を五千円(それでガス代を払った)で売ってしまったから私は選挙に行けない。
私の選挙権で投票に行く人は誰に入れるのだろう。
かんがえただけで頭は蝉の声でいっぱいだ。
本当は知ってるがここでは言わない。
あわてて買い戻して庭に埋めてひまわりの種を植えなきゃ、ならなくなるので。
もう遅すぎるのに。九月にひまわりだなんて。
ひまわりのかわりに見張りに立ってくれる人を、雇う金なんてないよ。
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きみがいつもより正気なのは黒いカプセルのせいじゃなく、きみが正気に見えるくらいぼくの頭にアジビラが降るからだ。
つくりかたを知らないぼくらが黒いカプセルを買うために、あんなイヤなこと、そんなツライことをしてまでこの世で金を稼ぐよ。きみがスナイパーに雇われて
ぼくの心臓に狙いをつけても、札束がきみのポケットにねじこまれるのを見届けるまでぼくは身じろぎもせず待つだろう。それどころかシャツの胸にあわててサ
インペンでへたな標的を書きなぐるだろう。
黒いカプセルをまぶたに載せると世界は、ぼくら以外のすべての携帯電話が話中になる。すべてのラブホテルの表示が満室になる。すべての袋とじページが乱丁になる。
すべての預金口座に一億円が振り込まれるだろう。ぼくら以外のね。
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駅だと思って切符を買ったのに、くぐり抜けたのは改札ではなくモーニングの右袖だった。
ぼくは呼ばれてもいないパーティーの受付で足止めを食らい、目当ての電車に乗り遅れる。ローストビーフを切り分ける男の脇の下を回送列車が通過した。
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まがりくねった道を川沿いに下ってきた。太陽が水しぶきを跳ねあげて何度も川面に身を投げる。そのたびぼくは目覚めて自分が道の途中にいるのを気づく。
「家族が出払ってしまった家の寝室で、目覚まし時計のベルが誰にも止められない」
というのがぼくが呼び戻される理由だった。靴の中でぼくの足は豆だらけだった。
蜂蜜を塗った食パンをたっぷり余らせたので、リュックは行きと変らぬ重さだ。まがりくねった道をまっすぐにショート・カットして風が吹き上げてくる。風には機械油の匂いが混じる。町からここはそんなに遠くない。
道は川に沿うだけでなく、川をまたいだり、川に踏まれたり、複雑に両者は絡まりあって進んでいる。川は落ちるように軽快に斜面をすべり、道はひきずるようにゆっくり斜面を這う。どちらも行き先は一緒で、めだかでも木の葉でもないぼくはひたすら道を行くのだ。
川は工場の敷地に入るとたちまち廃水で濁り、刺激的な匂いの泡を立てはじめる。
ぼくは道とともに正門をくぐった。むこうから部品が流れてきたのであわてて飛びのいて、雑草と石ころの上で通過を待つ。
背中の荷物はいよいよ重くのしかかり、溶けた蜂蜜がリュックの底を濡らしている。甘い匂いを嗅ぎつけた蟻がぼくのズボンの中を駆け上る足音がする。チケットを半券にするために引きちぎる点線のように。
沿道の工員たちは手に手に日の丸を握りしめている。何も持たないぼくは、拍手と曖昧な手振りだけで無数の部品を見送った。ラインのかなたに遠ざかる部品を。
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玄関に髪の毛が垂れ下がり、そのすきまから目が覗いている。ここは誰も来たがらない家だ。ドアをあけっぱなしで外出しても泥棒が入ることもない。
友人を招んでもその日は用事があると断るし、しつこく誘うと音信普通になる。玄関に垂れ下がっている髪の毛と、そこから覗いている血走った目がいやでみん
な敬遠するのだ。
でもそれは私と家に対して失礼な言い草である。と、誰もが思っているからはっきり理由を口にしない。あいまい
に笑ってごまかしながら、とにかくうちに来なくて済むよう知恵を絞っている。最近私はパーティーがしたくてたまらず、ごちそうの山にかこまれて何年も待ち
ぼうけを食わされながらつぎつぎと腐っていく料理を作り直し、髪の毛越しに外の世界に向かって鼻歌を流している。鼻歌はその都度作曲され、二度と同じメロ
ディーが流れることはない。すべての曲目は頭の中でなく家の空気に保存されている。私の家は鼻歌の倉庫と化しているのだ。
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首を取替え式にしたばかりの校長が、朝礼台で朝陽を浴びている。生徒は夏休みからこちら誰も帰ってこないので、がらんとした校庭でさえずるのはスズメだ け。ほかは何もない。背後に建つ校舎の窓という窓はカーテンが閉まり、校長の背中を映している。背中には洞窟のように穴があき向こう側の景色がそこから覗 いている。だれもいない校庭に点々と残る足あと。足あとは砂場をよこぎり裏の畑から来ている。畑のむこうは砂浜で、波に洗われるあたりで足あとは消えてい る。どうりでこの校長、海の匂いがするものだと私は納得する。そっと手をのばしてねじをゆるめると、首がぽろりと落ちる。マグロの頭とすげ替えてみる。校 長は今にも泳ぎ出しそうな身振りを示したが、ここが海中でないことに気づいたのかすぐに大人しくなる。講話を始める気配はない。生徒がもどるまで待つつも りなのか。それとも自分が校長であることさえ忘れ、いい陽気にすっかり眠たくなっているのだろうか。私は学校なんて信じない。校長の長話も。チャイムの懐 かしさも。けれど私はかつて生徒のひとりであり、あの校庭には永遠に戻らないひとりであることをおぼえている。私は校長の首を切りたての西瓜にすげ替え る。夏の香りがあたりにひろがる。すべては遠い過去だ。もう何も残ってはいない。
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私には手の届かないものが、お前のふところに転がり込む。目を丸くして、大声をあげて、大げさな身振りでお前はそれを見せにくるだろう。きいちごのジャ ムで汚れた皿にひとすじの髪の毛。壁に掛けられた潜水服を、私はそこにいる誰かのように眺める。あいにくなことにアパートの窓に明かりはなく、がっかりし たお前は階段をぶざまに肩から転げ落ちていく。すべてが理想の結婚に向けて敷かれたレールであるような、踏切を待つ奇妙な動物たちのなす列が横目に見られ る日々のうちに、人々は人と々に切り分けられてたましいの少ない顔を上げる。私は表面が泡だらけの手紙をお前からうけとって眺める。そこには戦争という言 葉が定義をかえて無数にくりかえされているが、私はそこにあるどの戦争へも行ったことがない。ということを返事でなく、無関係な何者かへの手紙に書いて投 函した初夏の夕。お前が屋根のうえでたてる足音を、句読点のタイミングにさえ採用しなかったのは私だろうか。
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解答者席にならんだ顔はどれも青白く生気がなかった。今週の第一問目が読み上げられても、誰ひとりボタンを押さないどころか身じろぎすらしないので、初老の司会者はとまどいと苛立ちの混じった目でスタッフに何かを訴えかけている。
四人の解答者は全員があきらかに死んでいた。それも収録中に急死したのではなく、すでに死亡している人間が解答者としてスタジオに運ばれてきたのだ。おか
げで独特の臭気が辺りにただよい、観覧席の老若男女(はプロダクションが用意したエキストラなのでむやみに騒ぎ立てたりしないのだが)も不快感をかくすの
に必死の笑顔をつくろっている。あるいは何の臭いか分からず意外と何も気にしてないのかもしれない。
三問目にいたっても誰ひと
り解答する意志を見せないので、司会者は憮然とした表情でしだいに投げやりな進行を始めた。十年以上つづいている番組で初めてのケースである。ナレーショ
ンの女声も合成された声のように無機質になり、画面に解答者の顔が映ると額や口にそれぞれ蝿がたかっている。私はビールの缶を握りつぶして台所へ立った。
週末のささやかな楽しみだった人気クイズ番組が、招かれざる者たちの登場により台無しにされたことを私は苦々しく思った。テレビに出演していることの興奮
が感じられない無名人の顔など見たくはないのだ。それなら芸能人や有名スポーツ選手で充分ではないか。あたらしい缶のふたをあけながら戻ると番組はなぜか
中断しており、死んでいたはずの解答者たちが席から立ち上がって司会者やスタッフに襲いかかっていた。まるでそういう映画の撮影が抜き打ちで開始されたか
のように。
初老の司会者が耳や喉を齧りとられ、荷物のように床にくずれおちたがその声だけは朗々とテレビから流れてくる。死人の仲間入りを果たした司会者の声は死後の世界の素晴らしさを声高に訴えかけていた。
死亡してしまえば生前の番組の進行など一切どうでもいいのだろう。無責任な話ではあるが。
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新宿行きのブランコが人身事故で朝から止まっている。家の中では肌寒いくらいだが、庭に出ると日なたは袖をまくって丁度いい暖かさなので私は、玄関の鍵 をかけ忘れたまま散歩に出かけた。公園に行きたいと思ったのだ。坂の途中にある公園は坂道と同じ角度に傾いていて、子供たちの見失ったボールがベンチに腰 掛ける私のつま先に当たって止まる。子供の声がする階段から先は死角になっており、有刺鉄線が立ち入りを禁じる区域で声はたがいのあだ名を呼び合う。まる で命がけの旅でとる点呼のように。立ち上がると、出口へつづく道をボールはふたたび転がっていき、木の葉でまだらな影のなかを私はボールにはるか遅れて歩 き出した。坂をくだりきると息が荒れていた。ブランコに身を投げた女が布に覆われた担架が、経堂と豪徳寺を結ぶ直線上からようやく運び去られたのが昼前。 さらに遅れて私は、昼休みの工員たちが食堂を出てきたうしろ姿に追い抜かれ、いちばん最後に帰宅すると、乱雑にならぶ見慣れぬ靴をまたぎ越して廊下に立 つ。煙草くさい笑い声のする居間のガラス戸で、花束のような黒い影がゆれ動くのを凝視する。
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「時給は一万円です。あまりに少なすぎますかね?」
採用担当者が不安そうに眉をひそめて私の目を覗きこもうとした。
「本
来なら二万円は貰いたいところだが…」私は咳払いをひとつ挟んでから話を続けた。相手の目は見ないのだ。相手か私のどちらかの気が狂っていた場合、狂って
いない方の目に狂いが水のように流れることもあるからだ。「無理は言いたくないんでね。そちらさんの事情もあるでしょうから、私は構いませんよ」
担当者の顔がお湯で戻されて緩んだ笑顔になるのを私はじっと窓に映して観察した。
翌日。私は代々木公園の日なたにあるベンチに腰掛けて居眠りの中にいる。
目を覚ますと、たった今まで見ていた夢の内容をさっそくノートにメモを取る。これが今日一日の私に与えられた任務である。メモを終えると次の公園(日比谷
公園)に移動してまたベンチに腰掛ける。移動には直通道路が敷かれており、そのために街には昨日まではなかったはずの穴があいていることを私しか知らな
い。迷い込んだ人が行方不明になるのも私の責任なのだ。
(首から上が犬の巫女さんたちが横断歩道を渡って いる。ふつうに日本語で会話してる。だが声は犬の声だ。横断歩道はとても長いので途中に休憩用の布団が敷いてある。巫女さんの一人が布団に入る。ほかの者 たちはおしゃべりしながら先へ進んでいく。布団から犬の顔だけが飛び出ている。そろそろ信号が変るのでは? そう心配になって布団をじろじろ見ていると、 犬が目をあけてワン、と吠えられた。私は恐ろしくなって駆け出す。はるか遠くで点滅する歩行者用信号が見える。間にあわない。私はなぜか地面にひきずるほ ど長い髪をしていた。はげしいクラクションに晒されて棒立ちになった私の髪が、わき腹をこするように走り抜けたバスの車輪にからみつく。ひきずられる! 覚悟して目をつぶると、バスの走る速度と同じスピードで髪が伸びている。横断歩道に突っ立っている私。床屋を探さなくてはなるまい。)
昼休みのサラリーマンに占領されてベンチがないとき、私は近所を散歩して時間を潰す。
これからビルの屋上にのぼり、柵を越えることしか頭にない人の歩き方はすぐにわかる。私はそんな人の後をつけた。首にプレートをさげた人々を玄関から吐き
出したり吸い込んだりしているビルの中へ、男は歩いていった。私は中に入らず、建物の前の歩道に立っている。通行人たちが屋上の不審な人影に気づき、人だ
かりができはじめるずっと前から私はそこに立っていた。街路樹に背中をもたせ、逆光で表情の分からない屋上の小さな人影を見上げる。
そろそろ昼休みの終る時刻だ。だが退屈な日常を揺るがす珍事に気を取られ、労働者たちは仕事へ戻る気配がない。ますます膨れ上がっていく人垣をかき分け、
私は突然狭い路地に入り込んでいった。人目につかない場所で私は鉛色の吐瀉物を地面にまき散らした。くずれ落ちた膝にそれがズボンの中まで滲みていくのを
さんざんな気分で、空にせり上がる朝日のように認識してゆく。朝日を浴びた私の巨大な横顔が仏像のように、この世界のどこかに聳え立っている。その場所に
たどり着ける通路はどこにもない。
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そんなに悪い感じの事故じゃなかった。わたしは真っ赤な夕焼けが真っ黒になるところを、帽子のふちの下からこわごわ見てた。でもそんなにひどい 「真っ黒」じゃないと思った。これなら頭の悪い男にビール瓶でぶたれた時よりずっとまし。あのときはすごく血が出たし、気がついたら包帯に瞼まで埋まって たんだから。今日のはちがうでしょ? そう思いながら私のすべては真っ黒にのみこまれつつあった。けっこう黒い。ちょっと待って! これはなんかちょっと 「暗黒」だけど。狭い、ねえ車からおろしてくれない? だれかいないの? だれもいない。少し寒くもある。そして私は、あっというまに暗くなった。
気がついたのではなく、はじまったのだ。わたしはさっきまで着てた枕カバーみたいな服を着てないことは、べつに驚かなかったけど、つまさきが、ずいぶん遠くにあると思った。「つまさきが、ずいぶん遠くにある」という考えが8の字をえがいて、私はそれをぐるぐる回った。
つまさきがぴくぴくと痙攣して、それからひざを立てて立ち上がろうとしてる。私は手のひらをベッド(に寝てるのだと思った)に突いて立ち上がる動作に加わろうとした。
「ちがうよ。あんたじゃない」
という声が頭上から降ったので、見ると白いひげをたくわえた口元がそう言ったのだ。目を離してたすきにつまさきは立ち上がってしまい、私は寝そべったま
ま。白いひげの隣りに黒髪の女が無表情に並んだ。それで気づいたのは、サンタクロースみたいな男が満面の笑みだったこと。でも不自然な笑顔だ。サンタク
ロースがそうであるように。
「クリスマスには間に合わなかったがね。どうだいそいつの着心地は?」
ど
ういう意味? と私は眉間にしわをよせた。身を起こそうと手のひらにあらためて、ベッドの感触をおぼえる。「どういう意味?」と声が出て、その声の中で私
はぐるぐる同じことを考える。どういう意味? 勢いをつけて持ち上がった上半身は、私のものじゃなく、目の前にはだれかのふるえの止まらない背中があっ
た。どういう意味?
待って。どこへ行くの。
玉突き事故、の玉でいうとちょう
ど真ん中くらい。いちばんみごとに潰れた車の中身もまた、いちばんよく潰れている。もちろんよ。夕焼けが、墨の中に沈んでいく巨人の背中のようだ。それは
とても奇抜な連想だった。なにか余裕を感じるっていうか。あるいは、ダメになっちゃってるっていうか。こわれたスピーカーからもれてくる音みたいに。
指紋って、よく見ると渦になってるのと、そうじゃないのとあるでしょう。さっき気づいたの。よく見るの初めてだから。ほかに何も見るものないから、指紋見
てる。ラジオも鳴ってるわけよ。この人の声きらい。ほかの局に変えて頂戴。でもそれは無理な話だった。ガラスに蜘蛛の巣が、ひろがる、ひろがる。そんなに
悪い事故じゃない。だってまだ夜じゃないし、番組は、いつか終るものだから。もっと最悪なことなら、いくらでも挙げることはできる。だからそんなに悲しい
目をしないで、運転手さん。まるでお留守な窓みたいよ。
二人目の女がならぶと、入院着のような同じ服のせいで、そう見えるのではない。やっぱり同じ顔なのだ。そしてそれは、私の顔にしては少し表情が足りない。少しじゃない、あまりにも。
三人目が今、自転車にはじめて乗る子供のように、ぎこちなくベッドを降りて床に立つ。すると私は、紙くずをまるめたみたいに笑顔になった。それを見て真似
して、笑顔を試している二人の女。それは笑顔と呼ぶにはまだ未完成すぎるしろものだった。でもしかたないの。時計がうるさくて眠れない部屋のような、そん
な騒ぎが、三人目の私の服の下から漏れてくる。それもまたしかたないの。いやだったら耳をふさげばいい。そうですよねえ? あまりにも簡単な相談ですよね
え。
私は両手で耳をふさぐ方法について、満面の笑みの男に訊ねた。
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くちぶえを吹かれてふりかえると、そこは砂時計のガラスの表面に映った街路で、くちぶえの主は警官だった。
「名前で呼んでよ」
女は馬鹿にしたような真面目くさった口調で云った。
「ちょっと質問があるんだがね。お嬢さん」
警官は表情ひとつ変えていない。
「最近、こんな男を知らないかね。警察官の制服を着て、街娼に声をかけてくる。特徴は巧みなほのめかしと脅迫、それに猫撫で声だ。連れていかれた女は、生きてふたたび街には帰ってこない」
「知らないわねそんな話」
女は砂時計に指をのばした。
「わたし忙しいのよ」
つまみあげた砂時計をひっくり返すと、ガードレールの前に立てかけられた花束にならべて足もとに置いた。砂のこぼれる音が夜の喧騒にまぎれて耳まで届かない。
警官の姿はどこにもなかった。
路の反対側のショーウインドーにうつる自分に手を振り、手を振り返されたことで女は満足したように歩き出す。
ウインドーの女だけが残った。砂時計の砂がこぼれきってしまうまでのあいだ、少し困ったような顔で、さらさらとなまぬるい夜風に吹かれていた。
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あいつの醜さにはだれもが一目置いている。人類に可能な醜さの限界に挑戦する勇敢なあいつに、誰もが心から拍手を惜しまない。私も可能なかぎりの援助をたった今申し出たばかりだ。
「大
した額ではないが、ボーナスは全額君に寄付することにした。どうかその最悪の醜さに拍車をかけるために使ってほしい。もちろん今後はあらゆる積み立てや月
賦、保険料の支払いを停止して君への寄付に回す。借金だって厭わないし、街頭で募金活動も展開するつもりだ。きっと趣旨に賛同する多くの市民が募金箱に殺
到するだろう」
あまりに醜いあいつを直視することができず、私は目をつぶったままそう断言した。
醜さの世界記録を更新中。オリンピックに「不細工」という競技がないことが世界一惜しまれる男。あいつの醜さは一種の超能力だ。あの未知のエネルギーを何とか平和利用できないだろうか?
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巨大なピンが屋根の上に載っているからといってボウリング場ではなかった。かつてそうだったとはいえ、今は違う。今はここは若者たちがスマートなフォームで得点を競う健全な娯楽の空間ではない。ピンの倒れる軽快な響きが建物のあちこちではじけていたりはしない。
収容所である。降って湧いたような収容所だ。老若男女問わずといいたいところだが、ざっと見たところ女ばかりだ。所長がレズビアンだからそうなのか、食糧
不足の折、男はみんな食われちまったのか定かではない。たしかにここには餌が足りない。お嬢さん方は頬骨が目立って美貌が台無しだ。彼女がしなびたドライ
フルーツと化す前に、ぼくらは花嫁奪還のための擬似ボウリング大会を主催する。もちろんあらゆるレーンは都市の比喩であり、ピンは衛兵をにわかに象徴す
る。
だが花嫁は、正確には花嫁候補は、ぼくらの突入を待ちわびる囚われの白い蝶ではなく、女所長と鋼鉄のディルドーで結ばれた
禁断のひめゆり親衛隊かもしれない。なんかドキドキしてきたぞ!っとぼくらのうち脳に白蟻の巣があいた連中が騒ぎ出す。落ち着け。若者の娯楽の王道はいつ
もボウリングだ。たとえすべてのボウリング場に火の手が上がろうと、あらゆるピンが首を刎ねたペンギンに差し替えられようと、ストライクが出た瞬間の爽快
感に敵うものはどこにもない。
花婿衣装を脱ぎ捨てた男性諸君、今すぐ近くのボウリング場へと駆けつけなさい。
どんな美貌も醜形も頭蓋骨上、たった数mmのできごとに過ぎないのだから。
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ノックの音で目ざめた。私の部屋は横たわると頭と手足が壁につかえる狭さである上に、玄関のドアがたったひとつの部屋にじかについているのでブザーがない。ノックの音だけで十分目が覚めてしまうのだ。
「毎度どうも。集金屋です」
声を出すとき首が伸び縮みするので人間じゃないことが分かる男(のかたちをしたもの)が言った。
「先月分の時計代をいただきに来ました」
先月もたしかに遅れも進みもせず時計は動き続けたし、ぼくは一日に何度も文字盤を見て時間を確かめたのだから時計代を払う義務があるのだろう。
けれど残念なことにうちには彼に渡せる金がまったくない。その旨告げるとぼくは集金屋に「とにかく部屋の時計は全部持っていってくれ。金のかわりにというわけではないが」
すると彼は困惑した表情をみせた。
「この場合、集金の対象になるのは先月の時計なのでして…」
集金屋はぼくの手渡した目覚ましをもてあますように何度も両手で持ち直した。
「先月も同じ時計だったよ」とぼくは言った。
「いえ」集金屋は首を振る。「今はもう今月ですから。今月の時計ですね」
いろいろと難しい話なんだな、とぼくは思いながら黙ってしまった。とにかくこの紳士的な集金屋のかたちをした人間以外のものは、本当はこんなふうにぼくを怒鳴りつけたいのだろう。「銭が払えないなら先月おまえが時計から読み取った時間という時間をすべて返せ!」
もちろん返せやしないさ!
ぼくは心の中で叫ぶと集金屋のくるくる回る小さな観覧車みたいな両耳に唾を吐きかけたい気持ちでこう静かに呟いた。
「明日また来てくれないかな。まだ割れてない皿やカップがあるから売りにいけば、少しはこれがつくれるかもしれない」
ひとさし指と親指でちいさな円をつくった。
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快速の止まらない駅の伝言板で人間宣言を済ませてきた元・蝋人形のありさがはじめて目撃した人身事故の現場は、こうした事故のうちでもっとも酸鼻な様相を呈しており具体的にいうと裂けたシャツの切れ目から血液とともに内臓が線路にはみだしていた。
たまたまホームには人がほとんどおらず、駅員があわただしく「救助」活動に奔走する隙にありさは線路におりてその内臓の散らばったひときれをポケットに隠した。名実ともに完全な人間になるためにそれは必要なものだと思えたからだった。
大事なものを手に入れたうれしさでありさのいつも生白い頬は紅潮しているようだった。電車を止めるほどの絶望をかかえていたはずの人のひときれは、手のう えで生温かい静かな生き物のようにじっとしている。この部品をあるべき場所へと戻してやる方法がほかに思いつかず、ありさは薄い唇をひらいて臓器のかけら を含むとコップ一杯の水とともに流し込んだ。どうかこれで万事うまくいきますように! ありさはそう声に出さないで祈る、神様は信じてないから心に一万本 のろうそくの炎を思い浮かべて。
蝋人形には人間の外見だけがあり内容は何もない。ありさが飲み込んだつもりだったものは浅い口 の奥で行き止まりにつきあたり、水といっしょに顎をつたって床に垂れ落ちてしまう。人の言葉を理解する蝋人形は人間まであと数歩に迫っているが、その数歩 が蝋人形の歩みにとって無限の年月を意味するのはいうまでもない。ありさの人間宣言なる文字もまた人間は誰ひとり読めない蝋人形特有の記号で書かれていたのだから。
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掘り進むのは井戸でなくらせん階段なので、私たちの関心はやはり消えることのほうにある。森がそこで内側に尽きているような、くり貫いたような空 き地で。それぞれの方角から、それぞれの獣道をつかい迷い込んできたぼくと、彼女と、君と、あの子を、ただひとつの人称で呼ぶなら私たちだが、ふたつに分 けるとすればぼくと彼女らだった。
ぼくの一歩一歩がすなわち階段となり、ネジ溝を刻むあいだ彼女らは下ばえにだらしなく寝そべるだけの怠け者をつとめる、そして夜。今度は彼女らが底へと降りていく番だ。
月が真上にさしかかる時刻が、この地方ではひと晩に幾度もおとずれることを彼女らは知るだろう。中古車のルームミラーでほほえむ、此処にいないはずの青白 い乗客がこの場合月面を輝かせる昨日の太陽なのだ。彼女らは夜のあいだじゅう、夜の来ていない場所をさがすために「穴掘り人足の死んだような居眠りの歌」 を999番までそらで歌い続ける。ただし鼻歌で、ひどい鼻づまり声のままで。
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ぼくらはたった三人の団体だった。ぼくらは「心臓団」を名乗った。
団旗には真っ赤な心臓がひとつ描かれた。モデルになったのはK子の心臓だ。
「かわいく書いてよね。冬眠中のカエルみたいに」
注文をつけながらK子はシャツの裾をまくり上げる。
血だまりの中からブラスバンドの演奏が低く訪れて、そして遠ざかった。
静まりかえった世界にK子の心臓がひるがえる。
ぼくらは彼女を悼む歌を歌う。そして涙を拭う。ぼくらは真新しい団旗を掲げる。
旗は夕陽を浴びていっそう赤く輝いた。K子の色に。
ぼくらはたった二人の団体になったけれど、彼女の魂はぼくらと共にある。
世界の終りにスイッチを入れるあの懐かしいボタン。
あの世から二人を嫉妬し続けるうらみがましい視線。
すべてK子の魂のかたちだ。
あるいは冬眠中のカエル。彼女自身そう望んでいたように。
心臓団は永久に欠けた三角形なのだから。
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警官は指がほころぶほど強く握り返した右手で俺の組織に侵入し、裏返りながらすっかり溶け込んでしまうと制服と制帽が太陽の照りつけるコンクリートに転がった。
「こいつを便所に捨ててきてくれ。中身は見るなよ」
そう鳩の言葉で鳩に命令してから警官は俺の意識のあった場所に納まる。鳩に渡した長期記憶に女の名前が混じっており、ちらっと目に入ると警官のペニスが臍 の右側辺りで激しく反応するのでどうやら下半身が充分同調しないまま奴は俺になったらしい。警官の俺は母親の名前で勃起する変態でお袋の形見のネグリジェ を着て眠るたび、自分そっくりな子供に性的ないたずらする夢をひと晩に三十回以上ばらばらに見続けたが、三十人の子供は少しずつ成長していって三十番目に はいつも現在の姿と寸分違わなかった。相手の名は警官の名前を鏡で映したように裏返しだった。
「お袋の亡霊に効くおまじないを発明してくれないかね?そこの美しいとは言えないお嬢さん方に質問だが」
俺は警官の口調で陸橋の下をくぐっていく通勤電車の乗客に話しかけていた。乗客の返事は石版に彫られた文字の形で数万年前の地層から相次いで発掘され、ス ポーツ新聞の一面に印刷されて売店に届くが俺はあいにく古代文字があまり得意ではない。そこで外国製ポルノに古代文字でスーパーをつけた映像が稲光のよう に何度もまぶたにひらめき、しだいに学習していく俺が売店にまっすぐ続く道を誰ともすれ違わずに進むあいだ母親のひびわれた踵が二十五年前から俺の頬をい きなり踏みつけてきている。
通勤電車のパンタグラフの 屈伸ぶりからママの得意な体位を連想した警官が、俺のよだれを大量に路面にこぼしながら売店に近づく。お袋はパーマ液の匂いをまっくらな寝室にたたえて息 子のパジャマに火をつけながら脱がせたり、逆さづりにした彼を蛇口に見立てて睾丸を左右にひねるとそれぞれ別なものが出る、という芸当を物心つく前から叩 き込んだおかげで警官になる前はその芸で食っていたが、当局からの手入れで最年少の彼だけは個室に連れ込まれ、人前で下半身を露出するのは恥ずかしいとい う思想を植え付けられた上で警官の制服を着せられた。着せ替え人形のように面白がってさまざまなデザインが試された後現在の制服に落ち着いたが、それがた またま日本の警視庁のものだったという。
挽き肉でできたような不自然な肉体で俺は警官の意識を売店の前まで運びきった。
財布の生温かい裂け目から液状化した紙幣を掻きだすといくつかの硬貨がコマのようにくるくる回っているのが俺に見つかる。
人間のかたちをとらないタイプの人間が雑踏を構成する町へ取って返し、少年時代の砂場から猫の骨が掘り返される場面を巻き戻しながらお袋の白髪が束になっ て積み上げられていった倉庫がいっぱいになり、次の倉庫を借りるまで警官の口の中で代用するための緊急の相談で余白のなくなった手帳のびっしりの文字の上 に今度はお袋が、白いペンでさらさらと意見を書き込んでいった。「おまえはわたしの宇宙みたいにだだっ広い子宮から出られたと思っているのが最初の間違い なんだよ」と。
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日本の跡地いっぱいに迷路が建造された。もとからある建物はそのまま維持されたが、隣家の玄関先に立つのさえ最短距離で(つまり迷う時間を考慮せ ず)一週間以上かかる場合もある。雲を突いてそびえる壁一枚へだてて、すぐそこに暮らすはずの人はもはや隣人ではないのだ。距離と時間についてまったくべ つの考え方が要求された。
私は夜警として迷路のある一点から歩き始める。壁に挟まれて前後にひろがる空間が垣根に突き当たれば よじのぼり、民家で阻まれていれば合鍵でドアをあけて裏の窓から出た。私は勤務時間中ひたすら歩き続け、終るとその場所で次の勤務時間が来るのを待った。 下手に動くと元の位置に戻れなくなる心配があるからだ。
私はゆうべの担当者がひと晩かけて歩いた道を今夜ゆく。私がゆうべ歩い た道は今夜はべつな担当者が歩くだろう。一定の間隔を置いてわれわれは夜警の旅を続ける。それは建前あるいは理想であり、事実は、私のあとに従うはずの者 がどこかで堂々巡りに捕まっているかもしれない。前方を行くはずの者がそれと知らず私に追い抜かれているかもしれない。だとすれば私が彼に替わり、誰かが 彼に替わるだけだ。私もまた誰かにたやすく替わられることができる。私は自分以外の夜警に会ったことはないが、先行者も後続者も、さらにその先や後ろに延々とつづく夜警の列の、どの顔も私に似ていることを知っている。
私たちは夜警以外の何にも似ていないのだ。そして夜警は必ず、どのみち、入口の出口のあいだを歩いている。
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棺桶を担ぐ数人の男たちの黒服が道をわたっていく。ひとりは帽子を胸に当て片手で棺を支えている。そのせいか全体のバランスが悪く何度も立ち止 まっては体勢を立て直す。けれど男は片手で持つのをやめない。しまいに帽子を落とした男が拾おうと腰をかがめると、傾いた棺が彼の背中を襲う。「雨が落ち てきたぞ!」叫んだ男は死の重みの下敷きになりながら空を見る。「墓穴が池になるぞ!」彼が立ち上がるのを待つあいだ棺は路面に置かれる。クラクション。 男たちがいっせいに顔をあげる。すべての顔に目鼻がなく、かわりに「へのへのもへじ」があるのを見てドライバーはタイヤを軋ませて車をUターンさせる。男 たちはふたたび棺桶を担ぎ上げ、道をわたりはじめる。目の前にひろがる墓地。墓地の先にひろがる田園。
ぼくは森の中を勘をたよ りに歩く。遠くに木々がひらけた場所が見え、近づくと田園地帯が森の先を引き継いでいる。ぼくは生物の肛門からひり出されたように森を抜け、まぶしい光に 手をかざして歩きつづける。あぜ道の果てはぼんやりと空気がかすんでよく見えない。天と地が接することなくすれちがっているように見える。
男たちは墓標の合間を縫って行く。雨はしだいに強く男たちの黒服や、担がれた棺の蓋を濡らしていく。先頭の男が指さした方向へ進路を変える。めざす墓穴が 見えてくる。「やれやれ、肩の荷が下りるぞ!」帽子を胸にあてた男が叫ぶが、誰も返事をしない。「へのへのもへじ」の顔をまっすぐ前に向けて歩調は変らな い。墓穴のかたわらに棺をおろすと、白木の表面に雨がしみこんで変色している。帽子を胸に当てた男がひざまずき、棺の蓋にある小窓に手をかける。「何て こった」べつの男がつぶやく。「そうじゃないかと思ったよ」さらにべつの男が付け加える。ほかの男は腕組みして棺を見下ろしている。開かれた小窓から雨が 内部に降り注ぐ。雨粒を浴びているはずの死者の顔はそこに見当たらない。棺の中はからっぽである。
ふと雨が上がり、にわかに雲 が切れて空に日ざしがあらわれる。濡れた墓標がきらきら輝く墓地の通路へ、ようやく田園を抜けてたどり着いたばかりのぼくが姿を見せる。男たちは顔を上 げ、いっせいにぼくの方を見る。ぼくは男たちの顔を見て一瞬ひるむが、気を取り直して笑顔をつくり、片手をあげて愛想よく近づいていく。男たちの一人が仲 間に何か耳打ちしている。声はまるで聞き取れない。静まり返った墓地に足跡だけが響く。ぼくは少し不安を感じながら、男たちのもとへと接近する。不安はし だいに大きくなりながら、なぜかそうすべきなのだと固く信じている。
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東京タワーにからみついた階段が少しほどけて、垂れ下がった先っぽが地面に叩きつけられる。バラバラに分解した踏み板がはねかえって走行中の車に接触、車は傷ついてガソリン臭い血を流している。
ぼくたちは遥か上の階段からそれを見おろす。ずるずると蛇のようにタワーの頂点をめざして這う階段の先端にぼくたちはいて、展望台の中で騒ぎ立てる観光客 とガラス越しに目が合う。興味本位の視線と指さしを浴びて彼女はすっかり不機嫌になっている。「今日のことはテレビで流されるわ。きっと実名でよ!」そし て両手で顔を覆って嘆く。「みっともなくて会社に行けない」
「君ならフリーだってやっていけるさ」ぼくは出まかせを云って彼女をなぐさめる。「いい潮時ってもんだよ」だが風が強すぎるので、ぼくの小さな声では彼女の耳に届かない。彼女はうなずきもせず黙って空を睨んでいる。
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太陽の裏側にまわると小さな巣穴が無数にあいてそこから刑事が出入りしていた。
刑事の鼻はどれも太陽から垂れた白い糸に繋がれていて、遠ざかるほど鼻の穴からずるずると糸は伸びていく。まるで彼ら自身が太陽という巨大な凧の糸巻きになったように。
「あれは全部本物なの? ママ。見学者向けのショウじゃなくて?」
幼い頃の私が母親らしい緑色の液体にむかって問いかけている。
「ど うしてそんな疑問を持つのかしらねこの子は。まさか将来変てこな主義にかぶれる手合いになるんじゃ」そしてごくっと唾を飲み込んだ。「…ないかしら。だと したら早くも私はこの子を生んだことを後悔し始めているみたい。私もまた地獄とこの世界を隔てる一枚の無用心なドアにすぎなかったのかもしれない」
緑色の液体がじわじわ蒸発して船内に緑色の空気をひろげていった。広間に雑魚寝している貧乏そうな身なりの人々が寝息でそれを吸い込んでいる。
私は酸っぱい味のおいしくないキャンディーが口の中で溶け切ってしまうのを感じた。
太陽が豆粒の大きさになるまで母親の愚痴は続く。その頃にはすべての人々の寝言が母親の声に変っている。
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たいていの天井に頭をこすりつけてしまう、まれに見る大男であるあいつの唯一の趣味は人形遊びなのだ。老若男女、容姿や素性のさまざまな人形があ いつの古ぼけたおもちゃ箱に詰め込まれているが、中でもお気に入りは外科医のボビーというハンサムな中年男の人形だ。白衣と口ひげに特徴があるボビーは妻 と幼い二人の娘、ひとりの肉感的な愛人がいるという設定で、愛人役を務めるのが音大生のメアリー。この娘は無口だがまなざしで多くを語るというか、自分の 云いたいことはすべて男の口から云わせるタイプなのである。
メアリーとボビーのデート現場が元患者だった工員に廃屋の窓(工員 は無断で住みついていた)から目撃され、鳥打帽を手でいじりまわしながら公衆電話からボビーの医院に脅迫の言葉を送り込んでくる工員の声を、あいつは本業 の霊媒師としての仕事の合間に控え室でひそひそと漏らしている。場面は変り、ボビーがいかにも弱りきった声でメアリーに相談する逢引のホテルの一室。まる で動揺など見せず、けだるそうに愛人に応対するメアリーの台詞をあいつは裏声で、いかにも小悪魔然とした喋り方で人形に語らせていた。すると突然ドアが開 いて助手の広沢が嫌悪感丸出しの顔でこちらを見ていた。
すかさず霊媒師としての威厳を取り戻した表情で、あいつは人形をでかい 手のひらの中に隠した。立ち上がって天井に頭をぶつけることで生意気な助手を威嚇する。「部屋に入るときはまずノックするものだと、無教養なご両親は坊や に教えて下さらなかったわけだね? 残念なことに」
頭上から見下ろす大男の馬のような顔が、どんより濁った目でにらむのを広沢 は鼻で笑ってやりたい気持ちになっていた。この男の霊能力と称する代物は、すべて子供だましのトリック(腹話術と手品の組み合わせ)に過ぎないことを世間 に公表してやるべきか? たとえば新聞に投書などして。だがそんな真似をすれば広沢自身の失業も決定的になる。ボロ布のようにこき使われるアルバイト生活 に逆戻りだ。金の亡者である広沢が一時の感情に任せ、一円の得にもならぬ行動に出ることはないとあいつは熟知していた。
にらみ つけていた表情を崩し、そっと背後でラジオのスイッチを入れて部屋に晩秋にふさわしいフルートの演奏を流す。険悪な空気は一掃され、金儲けという共通の目 的による連帯が二人を包み込む。背丈こそ大人と子供の差だが、脳味噌の程度は驚くほど似通っている二人なのだ。この大男とは前世で夫婦だったのかもしれな い、と広沢は何となく思った。とはいえ霊魂の実在はもちろんのこと、二人とも生まれ変わりなどこれっぽっちも信じてないのは云うまでもない。人間は死んだ らそれですべて終了なのだ。
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犬が犬の眼で迷路の入口を見すえている。脱がれていくシャツのように裏返りながら犬の頭に吸い込まれていく通路が、いわば迷路の外側に属する空間ごと (巻き込みながら)畜生の世界に移築される件について。私はとくに何も考えたりそれ以前に気づくことさえなく犬を、暮れかけた河原で遊ばせている。犬は興 奮して石ころだらけの地面を走り回り、狂ったように私の投げた木の枝を追いかけて齧りつく。歯型がこの犬の喋れない言葉の代わりにさわやかな主張を残し た。すえた匂いの混じる川の風に飼い主の髪が乱れるのを見上げながら、しっぽはある狭い空間だけを磨き上げている。
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煙草のヤニで汚れたスクリーンが、演技や特殊メイクではない本当に殺害されたばかりの若い男を淡々と映し出している。そのとき私は直前に駆け込ん だトイレで、ひとりで用を足していた。トイレの蛍光灯は切れ掛かっており、頭上で点滅するせいで私の前に放尿を受け止める二種類の便器を生み出している。 ひとつは見慣れた白い陶製の明るい便器で、もうひとつは雨雲のように陰気で地下世界への入口を示している四角い穴ぼこ。用を足しながらも私の耳は、上映中 にもかかわらず声をあげてさわぎたてる観客たちの動揺をとらえている。やがて手を洗う私の前に大きな鏡があり、点滅する光の中で私はやはり二種類の顔であ らわれる。暗闇のほうの私が灰色の歯をむきだして笑うと、ぽろぽろと口からあふれた歯が水流に巻き込まれ排水口に吸われていった。私は何も可笑しくなどな かった。
観客はあくまでショー・アップされた殺戮場面が目当てなので、現実の残酷な死がスクリーン上で見たかったわけではな い。それがスクリーンに映し出されたものである以上、物語の一部となった殺人は現実の殺人とはいえないかもしれぬ。だが撮影中にどんどん腐敗が進み変色し ていく男の顔は、物語の上では数分しか経っていないはずの真夏の児童公園に、現実の死者の時間をねじこんでいることを観客は無視できない。背後の滑り台を 逆からのぼっていくたまたま居合わせた子供が、カメラを意識して何度もふり返り、そのたび撮影が中断して雲の位置が大きく変る。子供は死体に気づいていな いか、死体そのものを知らないのかどちらかなのだ。でなければ死体の匂い始める傍らで、昼間とはいえ、幼児がひとりで遊び続けることなど不可能に決まって いる。私は馬鹿馬鹿しさを隠せず眼だけで笑った。フィルムの入っていないカメラの前で、撮影のふりをして行われる殺人の様子が収められたフィルム。人は未 だかつてそんなものを見たことなどないのだ。
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片足をひきずりながら歩く女には意識がなく、ひきずられているほうの足だけが今では女に残された唯一のものである。あとのすべては天上からふりそそぐ見えない糸の操作が女の意志を肩代わりしている。
女は時間をかけてたどりついた玩具売場のレジで財布を取り出す。遅効性の毒物をしみこませた紙幣が店員の手を経てレジに収められ、つぎに手に取る者があら われるのをおとなしくそこで待っている。女の荒んだ長い髪にからみつくしおれた花びらや枯れ葉や虫の死骸。それらを時おり口に運ぶことが意識のない女を生 かし続ける食事だった。買ったばかりの「おしゃべり宇宙ウサギさん」を箱ごと屑かごに放り込むと、女の足はつぎに蓋をあけるべき場所へと地獄の釜をひきず りながら去っていく。
もちろんトイレに行くことなどない意識のない女が垂れ流す小便の痕は、床に黄色い水をなめくじが這った痕のように張るのでぼくらは最後まで彼女を見失うことなどなかったのだ。
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運ばれていくあいだ、口の中で自分が何ごとか呟くのを感じていた。内容はまるで聞き取れなかった。内容などなかったのかもしれない。内容のあるこ とを喋っている意識などなかった。頭はからっぽで頭蓋の壁のひびわれから星の浮かぶ黒い空が見えた。でも今は昼間のはずだ、と私は考えあたりを見わたすと 案の定日ざしがあふれている。私は日ざしの中をどこかへ運ばれていくところだった。尻の下に椅子が川に流される木の葉みたいに心細く存在し、私は自動車の 助手席にいることが少しだけわかる。
ある瞬間、私は喉を嗄らしてひどい歌をがなりたてている自分に気づ いた。次に気がつくと私は犬のように唸りながらダッシュボードに額をこすりつけている。乱れた髪が目に入り、前がよく見えないので初めて目をこらしてじっ と前を見つめた。そこらじゅうが水に映った景色のようにまぶしく、だが、さっきと同じ日の太陽だとはその眩しさを思えない。目に入った道路標識にえがかれ た人物のシルエットが、私の見覚えのあるものといちいち違っているのが気になる。ひざまずく男の首を、振り上げた刀ではねようとするもう一人の男の図で、 刀をにぎる男は小柄で子供のように見えた。車は信号が変ったらしく急発進したが、信号など見当たらないし車は道路を走っているようには見えない。家と家 の、壁と壁の隙間といえない隙間を紙切れのようにすり抜けていく私たちと車。
割かれた動物の腹から、は らわたが外にひきずり出される様子をじっと見守っている。処理される動物は魚のような爬虫類のような姿で、まだ荒い息を吐いて震えている。私は生き物の死 を見届けるために、表情のない顔を覗き込んでいるのだ。そのつもりでしゃがんでいると背後からふいに肩を叩かれた。そこでチャンネルが切り替わったのだと 思う。動物の腹から外にはみ出たものは、はらわたではなくボロ布のような服を着た私だった。ふりむくとうしろにあるのは動物の死骸ではなく、歪んだドアの 開いた灰色の自動車で、運転手だった男は私を動物のはらわたのように襟首を掴んで引きずって目の前から始まる森のほうへ運んでいく。私は首を変なほうにね じって男の顔を見上げる。すると男もそういうときにするとは思えないような変な顔つきで、具体的にいうと猿が人間の表情を真似た笑顔のようなものを張りつ かせた顔で、下生えに踏み込みながら私の目を見返した。
「だから云っただろ」そうつぶやいて男は口の端から涎をひとすじこぼした。私はそれを見てこくりとうなずいただろうか。
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バス停として道端に置かれているのは等身大の若い男の姿をしたマネキン人形である。停留所の名前はマネキンにつけられた名前(モデルになった人物 から何の迷いもなく譲り受けられたもの)がそのまま使われているのでバス停らしくない。口にすると誰かの噂話を始めるような心持ちにさせられるし、私たち にとって会話にまぎれこませにくい困った名前ばかりだった。
車内アナウンスが次の停留所を「サトウマサオ」だと告げると、それ が私の降りる予定の場所(佐藤正男)だと気づいて降車ボタンに指をふれたまま、誰かがブザーを鳴らすかもしれないという期待をまだ捨ててはいない。間のあ いた車内であきらめてまるでサトウマサオに一票を投じるような納得のいかない、タイミングの遅れた分だけ気まずいブザー音を鳴らすとすでにバス停が間近 だったらしく、バスは急に減速すると歩道のガードレールの切れ目に寄せて身を震わせて止まった。
歩道に降りてきた客は私のほか に二人つづいた。私はまんまとこの三人の代表をつとめさせられたことを悟ったのだが、民家の庭木の影をからだの半分に受け止めて信号待ちのサラリーマンの ようにたたずむ佐藤正男の人形は、はにかんだような笑みから白い歯を覗かせていて私の気に入るものだった。白い歯は排ガスのせいで黒ずんでいたけれど十分 に白い歯に私には見える。離れて暮らしている年の離れた弟に似ているところがなくもなかった。不慣れなよそものに恥ずかしい役目をおしつける、狡猾な人た ちのことも弟なら笑って問題にしないだろう。ほかの二人の客はそれぞれ知り合いではないらしく、坂道を別方向へ無言のまま歩き出していくのを私はバスの窓 から遠ざかるバス停よりも無関心に眺めた。
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屋上が踊り場の役目をはたしている建物の十三階で、私は今朝からひとりで暮らし始めている。踊り場は上空にうかぶ観音様のかたちをした屠場にいた る階段の中途にあって、だから窓の外を斜めに横切っている鉄製の階段には毎日牛を引いて博労たちがのぼっていくたくさんの姿がみられるのだ。人と牛の輪郭 が朝日を浴びてこの部屋の床に影を落とすとき、この部屋の住人は頭上の空で微笑みに似た無表情を浮かべる観音様のことをつねに思い出してきただろう。私は 踊り場のことも屠場のことも引っ越しが済むまで気づかなくて、観音様は変った形の飛行船、外の階段は非常階段くらいに思っていたのだ。
テレビのスイッチを入れると再放送のドラマが、ちょうどエンドロールを断ち切られた唐突な印象で終ったところで、こけし型の新発売のおやつのCMが始まっ ている。このおやつは放っておくと髪の毛が勝手に伸び、夜中に家の中を歩き回るのだという。私はなんとなく興味を持ち、画面の隅に表示されている購入ボタ ンを軽い気持ちで押した。すると「お客様には現在この商品はお取り扱いできません」という表示が画面いっぱいに浮かび、クイズに不正解したときのように 「ブー」というブザー音が響きわたる。
この引越しですべての貯金を使い果たし、足りない分は年老いた親に借り、しかも私が十年 間も無職であることがテレビの向こうには筒抜けなのか? 私は買えないことが分かった途端そのおやつがたまらなく欲しくなり、近所のスーパーマーケットに 万引きしに行くことにした。道を歩いているあいだ、スーパーには私服の警備員が巡回している可能性があることに気づいたので、私はターゲットを非力な老婆 が一人で店番している駄菓子屋に切り替えた。住宅地の一番奥の崖に面した道路にその店はあった。老婆はいつも、悪知恵の働く小学生たちによる万引きを警戒 して店頭で目を光らせているので、私のような中年男性が来店すれば油断するだろう。信号のない国道をまるで障害物レースのように息を切らせて渡りきり、住 宅地のあるエリアに到達。そこから振りかえると私の暮らすビルは巨大な橋桁のようだ。私は道路を渡りきれずに轢かれた様々な動物の一部を靴の底から剥がし 取る。私は私の生活に恐怖を抱くことはないし、だからと言って温泉のような多幸感に包まれているわけでもなかった。私の見ている一寸先はつねに闇である が、何も見えないから、もしそこを光で照らせば凄くいいものが目に入ってくるのでは? とささやかに期待して生きていくことができる。恐ろしいのはすべて が昼の日差しの中で白々とあかるみに出されることなのだ。そのときすべての希望が失われ、私たちは笑いながら線路に飛び込んでいくだろう。
駄菓子屋は定休日でシャッターが下りていた。だが考えてみればテレビでCMを打たれているような新製品が、こんな崖っぷちにある駄菓子屋に並べられている はずがなかった。私は言葉にならない声を口から発しながらこぶしでシャッターをがんがん殴りつけた。となりの家の全身が黒い番犬が火のついたように吠え始 める。
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あなたが私のヒモでいたあいだ、私は赤い帽子の似合う犬を飼っていた。犬に似合う帽子はあまり多く存在しない。あなたがそれを見つけてきたこと が、あなたを少しのあいだ私のヒモにしたのかもしれない。犬が嫌いで、まるで殺されそうな目で見ていたあなたが、あの赤い帽子を手に入れてきたのは意外 だった。けれどそれは本当は、犬ではなく私のために(きっとお金を使わずに)手に入れてきた帽子だったのだ。
私はそれを被るの はごめんだった。赤い帽子など私に似合ったためしはない。ぞっと身震いして受け取ったそれを、何の気なし犬の頭へ載せてみる。すると新しい窓の鍵がひらく 音がするんと響いた。その日からだった。赤い帽子の似合う犬と、靴の脱ぎかたの汚い男をなぜか私が養う破目になったのは。
犬に 帽子がいつまでも似合いつづけることはない。それを私は知っていたし、あなたは知らなかったけれど、知ることと知らないことのあいだの不公平は、あなたを いつでも喜ばせた。あなたが嬉しそうにしているとき、罪滅ぼしのように私はお金を使いつづけたし、犬は赤い帽子がまるで娼婦のように似合いつづけたのだ。
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壁に塗りこまれて一ヶ月後に掘り出された人がバイト先に復職してきた。その人(千葉さん)は社員だからいろいろ保証とかもあって別にうらやましくないけ ど、待遇としては手厚いわけだ。もちろん腐ってて触ると書類が汚れるから自発的に手袋はしてる。直接かかわりあう仕事じゃないんで遠目に見てたけど、壁に 塗りこまれる前と較べたら口数が減ったみたい。つまんない冗談とか言わなくなったみたいでそれはみんな内心喜んでるんじゃないかな? 犯人まだつかまって ないけど千葉さんはべつに気にしてないみたいで、今も同じ部屋に住んでて壁の穴は段ボールでふさいでるらしい。どうして平気なんだろうねとバイトの同僚の 子に話したら、知らないんですか千葉さん前にもそうゆう目にあったんですよ。前にも? ってすごく驚いたらなんだ本当に知らないんですかあーって呆れた顔 をされたので、腹が立って棍棒で気が済むまでぶちのめしてやった。棍棒は会社のあちこちに満遍なく転がってる。何しろ当社の一番のヒット商品なのだから。 それで三十分後意識を取り戻した同僚の子が言うには、千葉さんは入社してすぐにも無断で一週間も会社を休んだらしい。心配した同期の子が見にいくと、鍵が あいてて部屋の壁の一部だけ色が違うから、あやしいと思って掘ったら血まみれの千葉さんが埋まってたんだって。今回と同じ壁だよ。きっと学生んときから何 度も埋まってるんじゃない?ベテランだよねーと二人で笑いあい、気がつくと終業時刻だったのでタイムカードに猛ダッシュ。みんな考えることは一緒みたいで お祭りみたいな混雑の中、一体いつになったらこんな生活を抜けれるんだろう。あるいは死ぬまでずっと。と目の前が暗くなった。
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きみはどことなく売女に似てる。うしろ姿ならジャングル・ジムにも見えるけど。きみのむこうに覗いてしまうこの国の現実が、埃っぽいクラクション まみれの道と道をかさねた×(ばってん)まみれでいる訳を、きみの口からぼくが話そう。ごはん食べながらお喋りしてついこぼしてしまうミートソースみたい に。今度はぼくの番だよ。
「すべての信号機に動脈の赤と、静脈の青と、おしっこの黄色を取り揃えております。(さらには)踏みし めながら彼岸へ至る鯨幕も、みどりちゃん(歩行者用)の瞬きに照らされて。世界の中心が移動しました!あっちへ!嘘ですこっちです!ぼくたちは!結局!墓 場につめたい布団を敷いてゆうべの夢へ!逃げ帰る途中の!やせっぽちで!頭のたりない!人類!なのです!人類が!いっしゅんで通り抜けた風穴はこちら」
きみのだらしないアルバイト。つめの色が何色だったかで思い出す、仕事中にまぼろしの捜査官たちが繰り広げるいたちごっこの、そのいくつかの種類。悲しい のや可笑しいの。ほんと馬鹿みたいに、きみの下着や奥歯をマッチで炙れば暗号でも浮かぶみたいに、信じてる男性たちのプラスチックの喉仏たち。それをひと つ残らず押し込むとまぼろしは止まる。さあ現実だ。きみはずっと同じ姿勢で、部屋の壁に貼り出されたセリフを一字一句忘れないくせに、わざと何度も云い間 違えてる。外国人みたいに。外はいつもその頃にはあかるくなっている。きみは駄目なアルバイトでいたかった。駄目なアルバイトの時給は百円から一円たりと も値上がりしない。きみは百円のままでいたい。きみは百円あればぴったり一時間動くから。コイン投入口に巻きつけた包帯を、ほどくのはぼくの仕事でそれだ けがぼくの仕事。男子一生の仕事。そうきみがさっき決めたのだ。
そして現実には痛くてたまらない腹をさぐりあうのだ。
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これなの、と彼女は彼にそれを差し出した。何これ? と彼。これはね、こうして着るの。たちまち彼女は裸になった。それが二つあるうちの、一つに 彼女自身が潜り込む。ほらね、わかるでしょ。ああ、なるほど着ぐるみかい。そう、着ぐるみ。うなずきながら彼女は、残りの、大きいほうを手渡した。ぼくも 着るのかい? と困惑顔の彼。当たり前でしょう、という目で見返す彼女。まばたきが瞬間、ちかちかと会話する。
しかたなしに彼 はつきあった。腕をのばす穴や、首を突っ込むべき穴がなかなか見あたらず、着ぐるみの中でしばらく七転八倒。やっとのこと収まるべき位置に収まると、狭い 覗き穴から彼女が見えた。彼女は牙のある顎の隙間で、器用に煙草をふかしてる。着れた? と彼女。どうにかね。と彼。満足気にほほえみながら、彼女は煙草 を壁に押しつけて消した。これはね、と自身をその太い着ぐるみの指で示す。セックスのできる着ぐるみなの。
ぽかん、という泡の はじけた顔で彼は恋人を見つめた。川の向こうの博士の発明よ、と彼女は胸をそらせた。ご覧なさい、と動物の胸や腰の辺りにある、特別なしかけを次々に披露 する。ほらこんなのも。こっちはどう? しかけのいくつかは、恋人も思わず目を逸らすほど、大胆で扇情的だった。おまけにひとつ残らず、合理的で、実用的 だった。すごいな、ぼくらのしてること、何だってできるんじゃない? そうよ。何でもできるの。あなたも試して。
見よう見まね で彼も、怖ろしいけもの(額にみごとなツノが生えていたのだ)の体をよじらせてみた。すると思いがけないところがポン、と開いたので彼は赤面する。慌てて しゃがみ込み、その部分を元に戻しながら彼は、もう一匹のけものを眩しげに見上げた。最初はよくあることだわ。でもすぐに慣れてうまくいくから、と彼女は 慰めた。あれ、出かけるつもり? 決まってるじゃない、と彼女。わたしたちこんないいものの中にいるのよ? まさかこの格好で? もちろんでしょ。心配な ら、博士がくれた説明書があるわ。私は読んでないけど。
二人は玄関にむかった。履ける靴はないね、と彼が笑う。当然ないわよ、 動物なんだから! あのね、今から私たち動物なのよ。素直にうなずく彼に、彼女は付け足す。いいこと? ここからは自由行動だから。好きなようにしてね。 ただし私のあとは、ついてこないで。けものの口の奥にある、人間の男の口から、なんとも心細い叫びが漏れた。もちろん彼女は聞いちゃいない。牙の格子の奥 で瞳が、きらきらと輝いている。私はあっち行くんだから、あっち以外にしてね。さようなら。幸運を祈るわ!
玄関のドアを蹴飛ばせば、そこはまだ真夜中の町。えものたちのカラフルな匂いが、ビル風にまじって吹き荒れる時間なのだ。
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部屋の真ん中で死んでいる昆虫をぼくは生活のへそと名づけた。動かさないように気をつけて翌朝をむかえると、壁の借金メーターが500をさしている。昨日は300をちょっと越えるくらいだったのに。
首をくくるか就職するかでぼくは揺れ動いた。犬と結婚した知人の女性の話を思い出して何とか心を和ませようとしたが、女性が結婚したのも借金が理由だったことを思い出すとかえって気分が暗くなる。彼女はべつに犬など好きではなかったのだ。
資産家の犬はぼくの何万倍も贅沢な暮らしを彼女に提供しただろう。だが所詮犬なので家は犬小屋だし食事はドッグ・フードだ。朝晩の散歩は妻である女性の義 務である。投票日には選挙権のない夫を家に置いて彼女だけが投票に行く。夫は屈辱を感じるだろうか? 犬だから何も感じないのか? ぼくが今すべきことは あの犬に自分の選挙権を売りにいくことだ。
便器の蓋を開けるとそこにエスカレーターが稼動している。ぼくは地下鉄の駅にたどり 着くまで電車賃がないことを忘れていた。改札の前まで行って手ぶらで引き返す頃には、ぼくは全身糞尿まみれだった。首を吊るには掃除機コードで充分だろう か。わが家には鴨居というものがないが、低い天井からはいつでも天使が両手をさしのべてぼくが助けを求めるのを待ち構えている気がする。
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「あの雲をよく見て」と妹が言った。「パパのしかめっ面に似てると思わない?」
窓に夕陽が当たり、目の中にオレンジ色の光が吸い込まれてくる。
「ハンバーガーはいつからこんな値段なんだい?」ぼくは訊ねた。「釣銭を見てびっくりしたよ」
「さあね。ほら、顔がだんだんくずれてきちゃう。ねえちゃんと見てよ」
それから五分後。妹は不機嫌そうに指先でストローをいじくっていた。
「本当にパパそっくりだったのに。あんなの二度とないことなのに」
ぼくはハンバーガーから抜き取ったピクルスを紙ナプキンにならべた。「好きじゃないんだよな、これ」
「パパが甘やかしたのよ」と妹が言った。「ぶん殴ってでも、好き嫌いを無くさせるべきだったわ。そのほうが実際は子供のためなんだから」
ふん、ふん、とぼくはうなずいた。うなずきながらピクルス抜きハンバーガーを齧る。
隣りのテーブルで、小さな女の子が声に出して絵本を読んでいた。
内容は子供が読むには全然ふさわしくないもので、耳を覆いたくなるような単語が何度も耳に届く。
夕陽が定休日のショッピングセンターの屋根に身を隠した。
「あれっ」
ぼくは立ち上がって店内を見回した。
「ここはマクドナルドじゃないか。いつからマクドナルドにいるんだい?」
まわりの客がけわしい顔でこちらを見ていた。カウンターから店員が身を乗り出している。
隣りのテーブルの女の子が、絵本を読むのを中断して不思議そうにぼくの顔を見上げた。
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腋毛をはやしていて美大生で裸のモデルもやります。みたいな顔で待ち合わせの場所に立っていた女に早口で挨拶すると私は刷り立ての名刺を一枚渡した。
「すっごい文字ですねこれは。鏡文字にしか見えないです」
女はさっき私が電車の中で思いついたばかりの名前が印字された名刺を、財布の中にしまうまでに何度も顔を近づけて読み返していた。
「想像医療ネゴシエーターってなんですか」
視力が悪いらしく女は何かを見るとき眉をしかめ、対象に近づけた目を細めている。日の暮れたばかりの空が稲光で音もなく発光するのがビルとビルのあいだの 空間に見える。女が肩を出した服から真っ白い肌に目立つほくろとうぶ毛が、路地を照らす店の明かりではっきり見えたり影になったりしている。私は私に与え られた肩書きを知らなかった。
「このあたりよく来るんですよ。そんな空き家ありましたっけ。じゃなくて廃屋?目立たないところなのかな」
そう。ぼくが誰かを連れて行くところはきまっていつも人目につかないところだから。
「もしかして地下なんですか。地下室。きっとそうですね?」
そのとおり。ぼくはきっと案内する彼女を階段を最後までくだりきった突き当たりの不適切なドアの裏まで。
フィルムの入ってないカメラで無防備な後頭部を思い切り殴りつけるとき、女の子は誰でもうさぎの鳴くような声をしぼり出すことを君はもうじき知ることができるだろう。
上映会場への階段は今大工がつくっている。手ごろな建物の壁にまず穴をあけて。
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くちびるが「ふ」のかたちになった女の子が流しの下からあらわれてぼくに銃をつきつけた。
「あなたが最後に踏んづけたアリが当たりくじだったのよ」女の子はそう云って銃をもたないほうの手で髪をかき上げた。「だから連行するわね。拒否する権利はないと思って」
流しの下には路面電車を思わせるデザインの乗物がとまっていた。ぼくは銃口にうながされるまま席につき、ドアが閉じてしまうのを心細く眺めた。
窓の景色はめまぐるしく変った。ぼくは驚きのあまり声も出ない。時計の文字盤によく似た町並みから、辞書の索引のような田園地帯へ。雨雲から垂れ下がった 塔の足もとに寄せたところで乗物は動きを止めた。「さっさと降りてちょうだい。もたもたしてるとドタマにぶち込むわよ」
地面に 降り立ってふりかえるとドアが閉まり、中で女の子が手を振っている。銃口からカラフルな万国旗が飛び出していた。「だ・い・せ・い・こ・う」女の子のくち びるがそう動いたように見えた。そびえたつ塔からはこまぎれになった音楽がきらきらとふりそそいでいる。乗物が塔のまわりを大きくめぐりながらやがて雨雲 に消えた。
「腹黒い女の妄想へようこそ」
ヴァイオリンで弾いたような声が近くでした。ぼくは周囲の丈 高い雑草や、ちらばっている紙くずをどかしてみたけれど誰もいない。紙くずにはアラビア数字と拇印が規則正しく、漢字とひらがなのように並んでいる。声は 今度は頭の中から聞こえた。「きみはあの女に好きなように想像されているんだ。これからもっとひどい目に合うところをね」
ぼくがいきなり自分の髪の毛に手を突っ込むと、ぎゃっという声がして真っ黒な猫が頭を蹴って飛び出してくる。
猫は地面に降り立って、ボーリングのピンの姿勢でこちらを見上げる。近くにあった石ころを振り上げてみせるとあわてて茂みの中に飛び込んでしまった。まだ 何か言いたげに首を覗かせるので、石を投げつけたらぐしゃり、と音がして猫は、猫の首と胴と手足のかたちの紙くずに分かれて地面に散らかった。ぼくがひと つを手にとってひろげたところ「はずれ」と書いてあり、拾い上げた紙くずは一枚残らずみな「はずれ」だった。
塔の入口のドアがまるでドアではなく、ドア以外のすべてのものが引きずられているようなひどい軋みをあげて開きかけている。ここで云う「すべてのもの」にはもちろんぼく自身も含まれている。思わずにぎりしめた雑草がごっそり抜けて手のひらに残る。
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パパにもママにも知られずサイボーグ手術は無事完了。全身が映せる鏡に風呂上りの私がプラスチックのボディを公開してる。頑丈でたとえばタンク ローリーに撥ねられた程度じゃ傷ひとつつかない、この愛しいボディ。もちろん今日一くんにだって手術のことは教えてない。反対されるに決まってたからだ。 私は周到に準備してカナダへのホームステイを装って入院に成功した。ネットで知り合ったカナダ人に協力を依頼、両親や今日一くんとの手紙のやりとりも見破 られず偽装してのけた。ちゃんとカナダを経由して手紙を出したのだからエライ。現実の私は新大久保のビルの地下にある違法病院に一ヶ月間寝そべってた。枕 元のテレビでヤコペッティの同じビデオを何百回も繰り返し見ながら。
私みたいなサイボーグになりたい子がわんさかそこを訪れ、 博士とおもにお金の相談をして肩を落として帰っていく。風俗とかで貯めこんだ通帳を博士に見せてはあっけなく首を横に振られてた。たまたま近所のどぶで三 億円拾って警察に届けなかった私だから、こんなレアな手術が受けられたのかも。考えたらすごくラッキーだったのかもね。私が正直者じゃなくってほんとよ かった! でもこれで一生肌のどこを裂いても血が一滴も流れない体になったから、私は大切な趣味をひとつ永久に失ったことになる。趣味=リストカットじゃないよ。献血。かわりに私が得たものは壊してしまう心配のいらない人形。壊せるものなら壊して御覧なさいよ、の誇り高い自動人形。どんなもんよ?
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ぼくは先を急いでいた。目の前にならぶ橇のうちどちらに乗り込むべきか? 時間はもうあまりなかった。サイレンはすでに隣町まで追いつき恐竜のように唸りを振り撒いている。ぼくにはサイレンに顔があるようにその表情をありありと思い浮かべることができた。
選択肢は二つある。ひとつは胸に「快速」の文字が縫い取られたチャイナドレスの女が鎖で縛り付けられた赤い橇。もうひとつは「急行」の文字が墨書された ゼッケンのビキニ女が蔦で繋がれた黒い橇で、時刻表によれば急行が快速に二分遅れてここを出発する。速度で勝るのが赤い快速なら迷うことはないが、黒い急 行の速度がそれを上回る場合(印象としてはこちらだ)終点までにはたして二分の時間差を逆転するほどなのか。女と橇を結びつける蔦が悪路の揺れで断ち切れ ることはないのか。以上の疑問に突き当たるのだが、訊ねようにも赤と黒の橇を引く女はいずれも猿ぐつわで会話の自由を奪われているし、耳は蝋でふさがれた 彼女らに身ぶりで質問する時間はすでにない。
けたたましく駆け回るベルがホームにひとり立つぼくに判断をせまる。まもなく駅舎 から自動的に発射される矢を背に受けたチャイナドレスが、苦痛のあまり飛び出せばあとはひたすらぼくに訃報を届けた家まで道なりに滑走を続けるだろう。二 分後に同じことがビキニの身にも起こる。ぼくは枯れた蔦の危うさをとっさに警戒し快速を選んだ。そこでベルがとぎれる。スキー帽越しに頭上で風が動くのを 感じた一瞬後、くぐもった鋭いうめきを前方に聞いたぼくは振り落とされないよう肘掛けにぎゅっとしがみついて目をつぶる。血を見るのは好きじゃない。ドレ スを着た背中なら、生々しい矢創を見ずに済むことをぼくは知っている。
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古い自動販売機で、消費期限を五年過ぎたコーラを買うのは私じゃなくソノちゃんだ。
電気の通ってない自販機から、ジュースをいくらでも手に入れるすごい技術がソノちゃんにはある。
私はというとゴムボートを骨の折れた日傘で漕いで、朝から焼け野原へ出かけて行ったきり。そこでへんな匂いのする灰をかきあつめて家をつくっていた。
灰でできた家には誰も住むことができない。壁にちょっと背もたれただけで、風がひと吹きしただけで家のかたちを終えてしまうから。
そんなはかない家はソノちゃんと住むのにぴったりだと思えたので、私は日が暮れるまで黙々と作業をつづけた。
彼女がそれを気に入るとはとても思えない。きっと私がまた役立たずな妙なものをつくったといって、顔色を変えておこりだすだろう。
あなた何。あなたは。お荷物?私の。お荷物?自分で、歩く気もないの。ねえ。
私が泣きそうになりながら黙ってたり、へたな言い訳をするのを待って(私はいつもきまってそうなるのだ)ソノちゃんはにぎりつぶしたコーラ缶の角をつかって私をぶつのだ。
どんなに手加減されたところで、切れやすくなってる唇はすぐに鉄の味をしはじめる。
するとスイッチが切れたみたいに身体が無抵抗になる。きっとなるから。
灰まみれの髪で夜の河のほとりに立つ若い女を、怖ろしいものとして想像したことはなかった。
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